平成30年度(2018年)京大「大問一(文理共通)」評論は、同じ論理構造がくり返される!

★人の「こころ」は「言葉」に支配されやすいもの?という話★

 平成30年度京都大学前期「大問一」評論(文理共通問題)。 ただし、小問五まで全ての設問を解答するのは文系のみ、理系には文系が解く小問三がない。出典は佐竹昭広氏『意味変化について』より、一部が省略。

 本文末尾に追記された出典名『意味変化について』最終形式段落⑨人間の「こころ」の変化が言葉の「こころ(意味)」の変化をもたらす、という本文の中心主題に繋がるものでした。

 なお、論理構造図では本文に引用された『為愚痴物語』と太宰の『風の便り』のそれぞれの一節を形式段落として数えていません。

★全体の論理構造について★

 形式段落①~④では、言葉(言語、語)を用いる人間を「言語主体」と表現しているので、言葉(言語、語)を「主体」に対する「客体」として「主体(人間)VS客体(言葉)」という二項対立軸を設定します。

 次に、記号アスタリスクを挟んでの形式段落⑤~⑦では、無限な連続もしくは混沌としたカオスの状態である「自然界・感情・心理」が、言葉(言語)が人間にもたらす「意味」によって、有限な枠内の秩序あるつコスモスとなっていくという論旨に沿って、「無限性(混沌など)VS有限性(秩序など)」という二項対立軸を設定しています。

 また、形式段落⑤ではスペクトルの事例スタンダール『赤と黒』形式段落⑥ではベンジャミン・リー・ウォーフの考え形式段落⑦ではフランス映画『泣きぬれた天使』をそれぞれ引用しながら、「主体(人間)VS客体(言葉)」「無限性(混沌など)VS有限性(秩序など)」の2軸が交差する論理構造が何度も繰り返されながら、「人間」と「言葉の意味」の関係が語られていきます。

  図の後に解説が続く☟

☞解説の続き
 
 さらに、記号アスタリスクを挟んで続く形式段落⑧・⑨では、言葉(言語)によって外界内界に「意味」をもたらされる側である「人間のこころ」が、言葉(言語)に対して「意味の変化」を促すという内容が語られていきます。

 平成30年度の京大評論は東大評論と同様な論の展開を示しており、複数の具体的な事例を示しながら二項対立軸が交差する論理構造を何度も繰り返すというものでした。

★小問の解説・解答★
 小問ごとに、二項対立軸を基本とする論理構造を確認していきましょう。各小問の正答例は青フォントで示しています。

【問一】解説
 内容説明問題であり、形式段落④傍線部(1)「一本のキーワードで架橋」という比喩的表現の内容を明らかにすることが求められています。下の図の論理構造を確認しながら解説を読んでください。

 傍線部(1)は、直前の一文の「意味論は、(語の)意味を客観的対象として、当の言語主体(人間)から切り離し過ぎた」という内容に対する筆者の考えとして「語の意味と言語主体(人間)の心的活動とは、一本のキーワードで架橋される」と語っています。

 この「一本のキーワード」とは傍線部(1)の直前の表現「『こころ』という和語」であることは明らかですし、それは、傍線部(1)の直後文「意味論にとって、これは、すこぶる重要な示唆だ」の「示唆」するものが、本文全体を俯瞰してみると、形式段落⑧の冒頭文「人間の『こころ(➡心的活動)』と言葉の『こころ(➡意味)』との間には、相互にはたらきかける二つの力がある」という内容であることからも理解できます。

図の後に続く☟

☞解説の続き

 「架橋」とはそもそも双方向に往来可能な「掛け橋」のことですから、人間の「こころ(➡心的活動)」言葉の「こころ(➡意味)」が、和語である「こころ(心的活動と語の意味という二つの内容を包含するもの)」「キーワード」として双方向に互いに力を及ぼしあっていることの打ってつけの比喩になっています。

 以上、ここでは本文全体を貫く「言語主体の心的活動VS語の意味」という二項対立軸を中心に据えて記述をしていきます。

正答:和語である「こころ」が人の心の動きと言葉の意味という内容を包含しているのは、人の心の動きと言葉の意味が互いに作用しあう緊密な関係であることを既に如実に示していたということ。(86文字)


【問二・三・四】形式段落⑤~⑦の論理構造図
 全てが内容説明問題です。

 形式段落①~④との間にアスタリスクを挟んで続く形式段落⑤~⑦には問二・三・四が設定されていますが、スペクトルの例スタンダール『赤と黒』の例ベンジャミン・リー・ウォーフの考えフランス映画『泣きぬれた天使』の例をそれぞれ引用しながら、「主体(人間)VS客体(言葉)」「無限性(混沌など)VS有限性(秩序など)」の二項対立軸が交差する論理構造が何度も繰り返され、「人間のこころ」「言葉の意味」との関係が語られていきます。

 各小問の解答に必要な確認すべき論理構造は同じですが、引用された事例ごとにその論理構造への切り口が異なることを理解して記述していきましょう。


【問二】解説
 「スペクトルの例」から考えていく内容説明問題です。

 傍線部(2)「客観的に見える自然界」とは「誰にとっても自然界は同じに見えている」ということです。

 ところが、傍線部(2)の後半では、「言葉の世界」において「実際には、(自然界は)なんら客観的に分解されていない」と述べられています。つまり、「言葉の世界においては、自然界が誰にとっても同じように見えているのではない」と言っているのです。

 ですから、傍線部(2)全体の表現内容を易しく言い換えれば、「自然界は誰にとっても同じに見えていると我々は思いがちだが、実は、言葉で物事を考える人間にとって自然界は人によってそれぞれ見え方(認知の仕方)が異なるのである」となります。

 では、「言葉の世界においては、自然界が誰にとっても同じにように見えているのではない」とはどういうことなのでしょうか?

 そのことを分かりやすくするために取り上げられた具体的事例が、本文の「スペクトルの例」です。(因みに、「スペクトル」という名称は、ニュートンがプリズムを通した太陽光が赤,橙(だいだい),黄,緑,藍(あい),紫の六つの色光に分解されるのを観測して,これをスペクトルと名付けたのが始まりと言われています)。

 物理学の視点からすれば、太陽光のスペクトルは連続しており、連続しているものは数えられないのですから、「光のスペクトルには無限の色がある」とする正しいのですが、日本語では「スペクトルにかけられた色彩」を七色(赤色、橙色、黄色、緑色、青色、藍色、紫色)の言葉で表すので、光の色相、たとえば「虹」は一般に七色として認知され、現在のアメリカ、もしくは英語では六色(赤色・オレンジ色、黄色、緑色、青色、紫色)の言葉で表すから、虹も一般に六色と認知されるというわけです。

 この「スペクトルの例」をもって、形式段落⑤では「言語のもつ構造性」について、14行目・15行目にあるように「無限の連続である外界を、いくつかの類概念に区切り、そこにおける固定した中心、思想の焦点としての名称をもって配置すること」と述べています。

図の後に続く☟ 

☞解説の続き

 つまり、「自然界などの外界全体が、言葉によって色などの共通した基準で複数に分割され、分割された要素が全体を構成する部分となって人間の認知や経験の全体像となっている
(➡無限の連続世界である自然界がそれぞれが属する言語の構造に従って分割され、一定の秩序と形態を持つ統一的な世界として人間に認知もしくは経験されていく)」ということです。

 このように、自然界を分割する仕方は各自が属する言語によって異なるということなので、傍線部(2)の内容のような「言葉の世界においては、自然界は誰にとっても同じに見えているわけではない」ということとなるのです。

正答:自然界は人間の主観を越えた客観的世界として誰にも等しく存在するのではなく、無限の連続として存在する自然界が自分の属する言語ごとに異なる秩序と形態をもつ外界として人々に認知されているということ。(96文字)


【問三】解説
 スタンダール『赤と黒』の例を踏まえながら傍線部(3)「無垢の純潔性」という比喩的表現の内容を説明する問題です。

 『赤と黒』の例では、ジュリアンと媾曳したド・レナール婦人の「幸福な陶酔」という属性をもった「個人的な感情」が、自己の行為に「姦通」という言葉を当てはめた途端に、その「幸福な陶酔」という属性が消え失せてしまい、その後には「姦通」という言葉が喚起する「怖ろしさ」という感情の属性だけが判然と姿を現してしまうという話が語られています。

 つまり、 人の行為や経験の生み出す「個人的な感情や心理の内面」は、本来、朦朧かつ不分明で捉えがたいカオスですが、その「個人的な感情や心理の内面」言葉という名前(名称)が与えられると、朦朧かつ不分明で捉えがたいカオスであった「個人的感情や心理の内面」が当初もっていたはずの無限かつ多様な属性はそぎ落とされてしまい、与えられた名前(名称)のもつ意味や属性だけが「個人的な感情や心理の内面」として当の本人に意識化・客観化されていく、といったプロセスが『赤と黒』に登場するド・レナール婦人の例を通して語られているのです。

図の後に続く☟

☞解説の続き

 つまり、傍線部(3)「無垢の純潔性を失ってしまう」とは、行為や経験によって生起される朦朧かつ不分明な感情が、ある名称を与えられることで特定の感情へと秩序化・意識化される内面世界は、同時に、言葉で名称化される以前の無限かつ多様な属性をもつ感情の多くを切り捨ててしまうということの比喩表現なのです。

 以上が解答の内容となります。

正答:行為や経験が生み出す無限かつ多様な属性をもった個人的な感情に一つの名称が与えられると、その名称が醸し出す特定の属性をもつものしか個人的感情として残されないということ。(83文字)

【問四】解説
 形式段落⑤の論理構造を引き継いでベンジャミン・リー・ウォーフの考えに依拠しつつ、「泣きぬれた天使」の例を踏まえた傍線部(4)の「結晶」という比喩的表現の内容を説明させる問題です。

 形式段落⑥では、ベンジャミン・リー・ウォーフの考えに依拠し、人の知覚や経験から生まれる無限の連続性を帯びた内的外的世界に一つの言葉が与えられた時、人はその言葉のもつ特定のチャンネル(枠組み)もしくは属性に従って自己の心理や行為の意味を理解していくことになる、ということが語られています。

 そのことが、形式段落⑦ではフランス映画「泣きぬれた天使」を例にしながらより具体的に語られています。

図の後に続く☟

 

☞解説の続き

 「泣きぬれた天使」では、盲目の彫刻家に対して漠然たる心情を抱くジュヌヴィエーヴが、その心情に「愛」と言う言葉を他者から与えられることで、彼への心情を「愛」として明白に自覚して生きるようになっていく、ということが語られています。

 傍線部(4)の直後にある「もやもやとした感情」、本文のこれまでの表現を借りれば「不分明でつかみどころのない漠然たる無限の連続である心情」に、「愛」という言葉が与えられると「愛」をそだてる行為や心理、「嫉妬」という言葉が与えられると「嫉妬」に懊悩する行為や心理、「憎悪」という言葉が与えられると「憎悪」のあまりに女を殺す大罪を犯す行為や心理、というように、言葉が行為や心理を制御していくプロセスが描かれています。

 つまり、人の知覚や経験が生み出す無限の連続性を帯びた内的な心情の世界にある言葉が与えられた時、人はその言葉が指し示すチャンネルに従いながら、もしくはその言葉が決定する行為や心理の中を生きていくことになるのです。このプロセスが傍線部(4)における「結晶してくる」の内容です。

正答:人の経験において生起される無限の連続性を帯びた内的な心情の世界に一つの言葉が与えられた時、人はその言葉が強いる一定の行為や心理を生きていくということ。(75文字)


【問五】解説
 「全体の論旨を踏まえて」などといった条件はありませんが、解答を作成する上で結果的に本文全体の論理構造を踏まえる必要がある理由説明問題となっています。

 形式段落⑨傍線部(5)「意味論は、人間の『こころ(➡心的活動)』と言葉の『こころ(➡意味)』の相互関係を究明する『こころ』の学とならない限り、人間の学としての『意味』を持ちえない」のはなぜか?という問題です。

 ここでの人間の『こころ(➡心的活動)』と言葉の『こころ(➡意味)』の相互関係について、一つ目の関係は、小問二~四が設定された形式段落⑤~⑦「『言葉の意味』が『人間の心的活動』に対して強制的な影響力をもつ(論理構造図では「分割・強制・啓示」という左から右に向かう矢印)関係です。

 さらに、二つ目の関係は、小問五が設定された形式段落⑧・⑨「『人間の心的活動』の変化が『言葉の意味』の変化をもたらす力をもつ(論理構造図では「変えていく力」という右から左に向かう矢印)関係」です。

 以上、「逆方向に作用する二つの力」が傍線部(5)にある「相互関係」であることを、論理構造図で確認しておいてください。

 補足しますが、人間の『こころ(➡心的活動)』と言葉の『こころ(➡意味)』の相互関係は、本文全体を改めて俯瞰してみると理解できますが、形式段落④の冒頭文「一般に、意味論は、意味を客観的認識の対象として、当の言語主体から切り離しすぎたうらみがある(➡つまり、言葉の意味を言語主体である人間の心的活動から切り離された独立の存在として扱い過ぎているということ)」という筆者の問題意識から始まっています。

 さらに、「人間の『こころ(➡心的活動)』と言葉の『こころ(➡意味)』の相互関係」は、小問一の解説の際に既に説明しましたが、傍線部(1)その直後文との内容である「和語「こころ」によって語の意味と言語主体の心的活動は~架橋される」「意味論にとって、これは、すこぶる重要な示唆だ」という筆者の考えの終着点にもなっています。

 したがって、小問五の理由説明問題では、本文全体の論理構造を踏まえることとなります。
 
図の後に続く☟

☞解説の続き

 形式段落⑤~⑦で語られた意味論は、「『言葉の意味』が『人間の心的活動』に対して強制的な影響力をもつ」という内容でした。それは、「言葉の意味」の方が言語主体であるはずの「人間の心的活動」を「分割・強制・啓示」という仕方で制御していく意味論です。論理構造図では「分割・強制・啓示」という左から右に向かう矢印で示しています。

 ところが、そのような「言葉の意味」から「人間」へと向かう力だけの一方通行の意味論は、形式段落④の一行目「(語の)意味を客観的対象として、当の言語主体(➡人間)から切り離し過ぎたうらみ(➡不十分さ)がある」とあるように、「人間の学」となるには不十分であると筆者は考えいます。

 実は、傍線部(5)「意味論は、人間の『こころ(➡心的活動)』と言葉の『こころ(➡意味)』の相互関係を究明する『こころ』の学とならない限り、人間の学としての『意味』を持ちえない」という筆者の考えは、直前文では「言葉の意味変化が、人間の『こころ』の変化を前提とする以上、人間の『こころ』の側から、言葉の『こころ』が追求されなければならないのは当然」と表現されています。

 この直前文の「言葉の意味変化が、人間の『こころ』の変化を前提とする」という形式段落⑧・⑨の中心的な内容であった考え、簡潔に言い換えれば「人間」から「言葉の意味」へと向かう力という観点を意味論に加えることが、意味論が「人間の学」となるために必要であるということなのです。

 以上、解答の際は、「『言葉の意味』は『人間の心的活動』に対して強制的な影響力をもつ」、もしくは「言葉の意味が言語主体であるはずの人間の心的活動を制御していく」という考えだけでは、意味論は「人間の学」として不十分だということを記述内容として指摘しておくことです。
  
 そして、形式段落⑧・⑨で語られた「『人間の心的活動』の変化が『言葉の意味』の変化をもたらす力となる」、もしくは「人間の心的活動の方が主体となって新たな言葉の意味を創造している」という観点を記述しておくことで、意味論が「人間の学」としての「意味」をもちえるのだという筆者の考えの理由としておきましょう。

 上の論理構造図を見ながら簡単に答を言ってしまえば、「言葉のこころ」から「人間のこころ」に向かう矢印では不十分な意味論であり、「人間のこころ」から「言葉のこころ」に向かう矢印があってこそ人間主体の意味論になるのだから、ということです。

正答:人間を主体とした意味論を展開するには、人の心的活動に言葉が一方的に影響を与えながら特定の行為や認知を強いるという側面からだけではなく、人の心的活動の時代的な変化が新しい言葉を創造しているという観点からも語の意味を論じることが不可欠であるから。(121文字)

平成29年度(2017年)京大「大問一(文理共通)」は随筆、主観的な対比の繰り返しが特徴

★旅人は、足を地につけて生きる生活者の調和を乱す存在かも、という話★
 昨年以上に素材文が読み易しくなった京都大学「大問一」の随筆です。高校の教科書レベルでいえば高1から高2用の素材文というところです。コツ(本文の読み方)さえつかめば、中学生や高校1年生でも記述に対応できるでしょう。

●随筆素材の問題に慣れるために、平成29年度東京大学二次国語(文科)大問四の「随筆」も解くことを勧めますよ。とても参考になります。

コラム *随筆(エッセイ)を読むポイント*

 素材文はあくまで「随筆(エッセイ)」ですから、評論のように明確な二項対立の軸が何本もあるわけではありません。ただ、主観性や主情的な表現の強い中にも緩やかな対比構造はあります。言い換えれば、二項対立の価値体系軸がひとつだけで全体や部分の論理構造が構築される程度で、複数の二項対立軸が交差するような論理構造になっていないということです。

 今回の随筆でも、緩やかな対比構造を中心にして問う問題がありましたので、そのような設問では二項対立的な対比構造という枠組み(スキーマ)を受験者自身の既有の知識としながら、本文の表現に存在する論理(情報と情報の関係性)を演繹的に推論し、記述の骨格とすることが求められるのです。つまり、小問五つのうち、単純な解釈問題である小問二を除く他の小問は、緩やかに表された論理の対比を構造化できれば正解できます。

 その二項対立を中心に据えて本文が示す情報と情報の関係を明確にする力が、近年、国公立の大学二次入試が求め始めた高次の思考力、すなわち解答者本人の既有の知識を統合した推論によって論理を構造化する力そのものなのです。

 同時に、「評論」とは異なって「随筆」は主観性や主情性の強い文章ですから、筆者の心理・心情を直接に明示する心情表現(動詞・形容詞・形容動詞など)、または情景描写によって筆者の心理・心情を間接的に伝える形容表現(形容詞・形容動詞)が、「随筆」読解のキーワードになっていきます。

★全体の論理構造について★
 次の図は、平成29年度京都大学二次の「大問一」随筆(文理共通問題、ただし、小問五まであるのは文系のみ。理系は小問四までの解答です。やはり、文系にはこの随筆の全体を貫く筆者の心情の根底にある価値体系を問う必要があるのでしょう。出典は串田孫一氏『山村の秋』)の前半の構造です。本文は大段落の間に「*」を設けており、構造図ではそれぞれ大段落一~六としています。

●大段落一
 古い友人からの手紙が、ずいぶん昔に訪れたことのある山村の思い出に筆者を導く契機となったことが述べられた冒頭部分です。傍線部(1)についての内容説明問題です(小問一)
●大段落二
 山村を訪れたときの秋の気配を中心に、そのときの心情が次第に具体性を帯びてきます。傍線部(2)の指示内容の説明問題です(小問二)
●大段落三
 鮮やかに蘇ってきた山麓の或る村の記憶を辿り、筆者がその村で出会った農夫に柿を貰った話が中心となっています。その農夫の言動に感じた素朴な人柄が大段落五・六と続く調和的世界への伏線もしくは導入にもなっています。傍線部(3)についての理由説明問題です(小問三)

★次の図からは、後半の内容が加わります。

●大段落四
 筆者の感性によって捉えられた秋の陽光の紡ぎ出す色彩豊かな村の情景が語られています。
●大段落五
 農夫から貰った柿を食べながら陽光の優しさに包まれた筆者の、空想的かつ浪漫的な想像の世界が広がっていく場面です。傍線部(4)についての理由説明問題です(小問四)
●大段落六
 大段落五で陽光の魅力を自分だけが知るという主観的な想像から、今度は批評的な視点で筆者自身が眺め直し、陽光の魅力を自分だけが知るということは、逆に、自分が山村の調和的な世界から外れた不調和な存在だからだという自己理解へと非常に論理的に発展していきます。ここには、自分が山村にとって不調和な存在だから山村の調和的世界を理解できるのだというパラドックス的な論理が存在します。おもしろいですね。傍線部(5)についての理由説明問題です(文系のみの小問五)

★小問の解説・解答★
 小問ごとに、随筆ならではの緩やかな対比構造を確認していきましょう。各小問の正答例は青フォントで示しています。

●小問(一)は、内容説明問題です。
 友人からの手紙を読んで「贅沢な奴」と思いつつ、「ずるい奴」とまではいえないと筆者が考えた内容を解釈させる問題です。友人の移住した先は、本文の後半三つの大段落に描かれた筆者の思い出の山村です。だから、そこに移住した友人は「贅沢な奴」と筆者に思えてしまいます。
 しかし、その山村に自分が抱いた感懐と友人が同じ思いをもったかどうかは、手紙からは移住の事情など不明ですから、「ずるい奴」とまではいえないということです。ただそれだけをまとめればよいのです。つまり、「贅沢な奴VSずるい奴」を二項対立的に並べて、それぞれに説明を加えるのです。

正答:友人の移住した山村の魅力を知る自分の心に彼を羨む気持ちが芽生えるが、その移住の実際の事情は不明なので彼を批判的に見るべきではないということ。(70文字)

●小問(二)は、指示内容説明問題です。
 前述の「随筆・随想を読むコツ」のように、「嬉しい」「穏やかだ」「放心する」「安らかだ」をキーワードにして、大段落二における筆者の心理・心情を読み取ってまとめるだけでよいのです。その際、「匂い」「色」「声」など感覚(嗅覚、視覚、聴覚など)的な刺激によって秋という季節感を筆者が身体的に受け止めていることも、しっかりと書き込んでおきましょう。

正答:季節感を全身の感覚でしっかりと受け止めながら、その喜びや安らぎの中に我を忘れるほどに浸りきるような旅。(51文字)

●小問(三)は、理由説明問題です。農夫の人柄の良さを感じ取ったことの根拠を示すことが求められます。
 柿をめぐっての農夫との心の交流(みたいなもの)が描かれた場面です。柿を「売ってくれ」と頼む筆者に、柿を落として「持って行って食べなさい」と答える農夫。このやり取りに農夫の「邪気のなさ」「正直さ」「素朴さ」を感じる筆者の気持ちに、一体どんな根拠や理由があるのでしょうか。問われた以上、答えるしかありません。

 この場面では、二人の間に金銭の授受はないとしか読めません。分かりやすいように大げさな表現をしますが、都会に住む筆者は物をやり取りしようとすると、どうしても市場経済・貨幣経済に縛られた言動をとってしまいがち。

 でも、農夫はそんなこと(金銭の授受による物の売買)などに頓着するはずもなく、庭先に生っている柿を「いくらで買いますか」なんて言うはずもなくて、柿をさっさと叩き落して筆者に「食べなさい」と手渡したというわけですね。

 この農夫の言動が彼の人柄の良さを窺わせるものとして、都会人の筆者には感銘深く映ったのでしょう。つまり、この二人の言葉のやり取りにうかがえる対比的な構造(柿をめぐる「筆者VS農夫」もしくは人間関係における「都会人の論理VS村人の論理」)に着目して、正解を作成することになります。

正答:筆者が売ってくれと頼んだにも関わらず、落とした柿をそのまま手渡してくれたという農夫の行為に垣間見た山村に住む人の、物に拘らぬ実直な人柄が心に響いたから。(76文字)

 大手予備校(河合塾や東進など)の中には、遠目できれいに見えた柿が近くで見ると汚かったことへの違和感を正答の中に示していましたが、柿の実の視覚的な対比(キレイVS汚い)が農夫の素朴な人柄といったいどんな因果があるのでしょうか?

 予備校や赤本などの掲げる傍線部の中の漢字の辞書的な意味を述べただけの模範解答例には思わず頭を傾げてしまいます。簡単そうに見える設問ほどきちんとした根拠ある論理の構造化が必要です。

●小問(四)も、理由説明問題です。太陽の「秘密」性を解き明かして、根拠とすることが求められます。
 大段落四の「秋の陽光が紡ぐ物語」という筆者の捉え方が大段落五へと発展していきます。筆者は山村に降り注ぐ秋の陽光の魅入られながらも、その優しい光の高貴さに気づくのは自分だけで、この地の住民は気づかないのだろうという考えに到ります。この旅人の自分だけにしか明かされない高貴な光という対比構造の中に、この陽光の魅力の秘密があるのです。

 つまり、秋の陽光をめぐる「筆者VS山村の人々」という対比構造を根拠にして、秋の陽光をめぐる秘密を解き明かしていくという答案づくりです。

正答:山村に降り注ぐ秋の陽光の優しさに胸打たれながらも、その陽光の高貴な魅力を知るのは自分だけで、日常的な営みの中に溶け込んだままその土地の人々には気づかれようもないものだから。(86文字)

●文系のみの小問(五)も先に続いて、理由説明問題です。この山村に自分の「居場所はない」という筆者の考えの根拠が求められます。
 
 大段落五でこの山村を「太陽にとっては秘密の土地」と考えたのは、自分がこの土地にとって外部の旅人であるが故だと悟ります。そのことが、この大段落六冒頭にある比喩的な「私自身が~奪い取る」という表現によく示されています。

 そして、太陽の優しい愛撫に包まれて過不足なく日々の営みが静かに続く「調和的な世界」として筆者の目に映るようになるほどに、その世界に外部の自分が入り込むことは、自分が調和の世界を乱す不協和音のような存在もしくは不調和な存在になっていくだけのことと悟り始めるのです。

 つまり、「外部の不調和な存在ゆえに、自律的な内部の調和的な世界が理解できる」もしくは「自律的な調和的世界を理解するがゆえに、自分がその世界の調和を乱す存在(不調和な存在)であることが自覚される」というパラドックス的な論理が根拠となって、「自分が住む場所はこの土地にはない」という筆者の思いが生まれたというわけです。
 
 以上、「外なる存在(筆者)VS内なる存在(山村の人々)」➡「不調和(な存在)VS調和(的な世界)」という二項対立的な論理構造や前述したような筆者のパラドック的発想を踏まえて、しっかりと答案にまとめましょう。

正答:人間の営みと自然が作り上げた山村の自律的な調和的世界の魅力は旅人として外から眺めてこそ理解できたのであり、外部の自分が山村内に移住することは自分が不調和な存在として山村の調和を乱すことになるだけだと悟ったから。(105文字)

 この小問の解答でも、大半の予備校は傍線部自体やその前後の解釈に終始し、「外なる存在(筆者)VS内なる存在(山村の人々)」➡「不調和(な存在)VS調和(的な世界)」という二項対立的な論理の構造や筆者のパラドック的発想を明らかにするような解答例を示し切れていませんでした。理由説明には、傍線部のような意見や考えの根拠となる論理を明らかにしていないと、ほとんど得点できない解答にならないことを知っておきましょう。

●問題を振り返ろう!

★随筆でも論理的な思考力が試される!
 随筆・随想という素材でも、緩やかに論理的な構造は存在します。設問は皆さんの読後の感想を訊ねているわけではありません。
 
 例えば、小問(三)のように「なぜか」という理由説明問題が作成された段階で、既に論理的な思考力を問うているわけですから、筆者の主観的な心情を核にしながらも、そこに働いている論理的な構造(ここでは「都会人VS村人」)をしっかりと組み立てないと、答は作成できません。
 
 つまり、論理的な構造に対する理解を促す「評論スキーマ」という枠組みの知識を前提に、二項対立の軸を問題文から読み取る必要があるのです。

★やはり、パラドックス(逆説)という論理構造は重要だった!
 今回、解答欄が4行と最も大きな設問となったのが、小問(五)です。ここでは「不調和な部外者だからこそ調和的な世界内の構造がいっそう理解できる」というパラドックス的な論理・発想をしっかりと説明することが求められていました。簡単にいうと、「岡目八目(傍観者ほど真理がよく見える)」の類の簡単な逆説的発想です。

 パラドックスの論理は、簡単にいえば、「大きいからこそ、小さいのだ」「面白くないからこそ、面白いのだ」「客観的だからこそ、主観的なのだ」「無常だからこそ、有常などだ」という「真理に反するような結論であるにも関わらず、実際には(筆者の考えに従えば)真理を述べている」表現であり、二項対立(二値対立)の軸が表現に用いられています。

 パラドックスという論理については、今年度の東京大評論の「問題を振り返ろう!」で既に述べましたが、改めて以下に列挙します。
●平成28年度大阪大学
(文学部以外の文系)評論問題Ⅰの小問四は、「大衆のルサンチマン」は政治権力にとって相反するパラドックス的な存在という問題でした。
●28年度九州大学
(文系全学部)大問一の小問6は、人間の行為の結果が「予見できないということが、予見できるという人間の思い込みを強める」というパラドックスの説明。
●29年度東京大学
第一問(評論)の小問(三)は、科学技術は人間の営みから「離れている(ニュートラル)」が故にこそ人間の営みと「密接に関わる(アン・ニュートラル)」のだ、というパラドックスの説明。  
●29年度京都大学
(理系学部)大問二の小問二は、「小説の作者の客観的な執筆態度が読者の主観性を助長する」というパラドックス的発想の説明。
●29年度京都大学
(文理共通)大問一の小問(五)は、「不調和な部外者こそ、調和的な世界の内部が理解できる」というパラドックス的な発想を根拠とした理由説明問題。
●29年度 大阪大学
(文学部を除く文系学部共通)「大問一」の小問二は、「無常(はかなさ)の追求こそが、かえって生の充実(有常)につながる」というパラドックス的な発想の説明。
●29年度 東北大学
(文系共通)「大問一」の小問(四)は、「『様式化』された絵画ほど『写実的』な表現である」というパラドックス的発想でのエジプト壁画の説明。

以上、パラドックス(逆説)の論理が苦手な高校生はこれらの問題を確認して、ぜひ克服しておきましょう。

平成29年度(2017年)京大「大問二(文科)」も二つの軸が交差する論理構造

★「作品の読み」は過去から現在に至る人々の「読み」に統合されながら生成発展しながら深まっていく、という話★
 平成29年度京都大学二次の「大問二」評論(文系用)、 出典は西郷信綱『古事記注釈』です。全体を構成する六つの形式段落を前半と後半に分けて論理の構造化を図っていきます。

 京都大学の入試の現代文は質の高さで昔から定評がありますが、今回も論理の骨格を成す縦軸に対して、過去から現在へと動的に移行していく縦軸が形式段落④にはっきりと示されています。そして、その横軸が縦軸に交差したままに過去から現在へと移動くしていくという点がこの評論の実に興味深いところでした。このように動的でユニークな論理構造の素材をよくぞ探してきたなぁ、さすが京大と思った次第です。

 論理の骨格を構築している縦軸は「私」や「あなた」という個人における「作品の読みの変化」を過去から現在という時間軸としています。また、自己と他者との「作品の読みの違い」を横軸としていますが、この横軸も過去から現在へと時間的に移行しながら縦軸と交差しています。

 横軸の「自他の読みの違い」が過去から現在へと時間的に動きながら「個人の読み」に交差しつつ関与していくので、縦軸の「個人の読みの変化」は時代性や歴史性を帯びていくのだというのが、本文の胆となる主張となっています。

●京都大学の素材文は基本的な論理的思考力を養うのに最適!
 京都大学が出題する現代文の素材は、毎年のように論理の構造がしっかりとしていて読み応えがあり、受験生の論理的な思考力を確実に測定できるものばかりなので、他のどこの大学を受験する人も必ず一度は目を通して、現代文を読み解くのに必要な力を養うようにしてほしいと思います。

★全体の論理構成について★
【前半】
 個人がある作品を読むということは、現在の読みが過去の読みとは異質なものとなって変化していく経験であり、その変化こそが作品に対する読みが深まっていくということなのだと筆者は考えています。

 ここでは、個人の読みを歴史的・時間的な変化の様相(通時性:時間の流れや歴史的な時代の変化に沿う性質)として捉えています。つまり、個人における「通時(時間の流れや歴史的な時代の変化に沿うこと)的な読みの変化に関する内容が語られています。

 また、形式段落③では個人の変化をもたらす働きとして「弁証法(対立・矛盾するものをより高い次元で統合していくこと)」という表現があります。個人の読みは、過去の経験や視点・知識と現在のそれらとが対立・矛盾したとしても、両者をより高い次元で統合しながら「過去の読み」が「現在の読み」へと変化していくという意味を表すものとして、本文では「弁証法」という表現が用いられています。

【後半】
 前半の個人における「通時的な読みの変化」に関与する「共時における個人(私やあなた)と他者との読みの違い」に関する話が後半です。

 つまり、過去から現在までの時間の流れの間に存在する折々の時間、その折々の時間を共に生きる「共時(時間的な流れや歴史的な変化を考慮することなく、ある一点の時間に限定すること)的な自他の読みの違い」が、個人における「通時(時間の流れや歴史的な時代の変化に沿うこと)的な読みの変化」に関与していると後半では語られているのです。

 面白いのは、この「共時(時間的な流れや歴史的な変化を考慮することなく、ある一点の時間に限定すること)的な自他の読みの違い」も過去から現在へと歴史的・時間的に変化していく様相として、つまり「通時(時間の流れや歴史的な時代の変化に沿うこと)態」として、「通時的な時間軸」に並行して時間の流れの中でも捉えられている点です(傍線部(3))。

 以上、全体を一気にまとめてしまいましたので難しく感じたかもしれませんが、個々の小問解説をじっくり読んでいけば、理解できていくと思います。

★前半の論理構造図★
 論理の骨格を構築している縦軸は「私」や「あなた」という個人における通時的な「作品の読みの変化」を過去から現在という時間軸とし、「個人の読みの変化」を歴史的・時間的な変化の様相、つまり、通時(時間の流れや歴史的な変化に沿うこと)的なものとして捉えています。

★後半の論理構造図★
 「私」や「あなた」という個人における「作品の読みの変化」という時間軸に、「他者」との「作品の読みの違い」という自他関係軸が交差(本文では「交叉」)して加わっていきます。

 形式段落④での「作品の読みの違い」という自他関係軸は、本文では時間の流れの中の一点に時間に限定された「共時」的なものとしてまず扱われており、論理構造図でも「通時」的な「個人の読みの変化」という縦軸に交差させています。

 次に、この自他関係軸である共時的な「作品の読みの違い」も縦軸同様に過去から現在へと時間の流れや歴史の流れに沿って移行する「通時性」をもつものとして本文では扱われていきます。

 したがって、論理構造図でも「作品の読みの違い」という自他関係軸を二本にして、その二本の横軸を「時間の流れを示す点線矢印」で繋ぐことで、「共時」的でありながらも時間の流れに平行に沿った「通時」的なものであるという自他関係軸の二重性(共時性通時性)を表わすこととしています。

 形式段落⑥へと論理が発展しながら、共時的な「自他の読みの違い」「通時性」を有することで、常に通時的な「個人の読みの変化」と曖昧で複雑かつ微妙に絡み合って融合し、各時代における「作品の読み」を歴史的に生成発展・深化させていくという過程のイメージが、後半を含めた次の全体構造図で理解してもらえると嬉しいのですが。こんなときこそ、パワーポイントのアニメーションを活用しながら皆さんに構造図の意図や意味を直接伝えたくなりますね。

★小問の解説・解答★
 小問ごとに解説・解説します。各小問の正答例は青フォントで示しています。

●小問一は、理由説明問題です。本文の導入部における易しい問題でした。

 「古事記」とは皆さんも知っての通り、和銅5年(712年)に太安万侶が編纂して元明天皇に献上したといわれる日本最古の歴史書ですね。これを18世紀江戸時代の国学者である本居宣長の「作品の読み(理解や解釈の仕方)」と現代を生きる私たちの「作品の読み」とはどうして違ってていくのか、という問いです。

 構造図に示したように、本文の記述を踏まえながら宣長と私たちとでは物事を理解する視点が依って立つ時代状況や価値観、思想といったものが異なるということをより明確にしながら記述すれば良いのです。

正答:江戸時代の宣長と現代人の間にある各々の時代状況を反映した思想や価値観の違いによって、両者の古事記を読む視点やその理解の仕方は当然異なるものとなるから。(75文字)
 
 この「古事記」という作品の理解には読む人の置かれた時代状況が大きく関与しているという話を出発点として、「作品の読み」は歴史的経験なのだという本文の中心的主題へと展開していきます。

●小問二は、内容説明問題です。
 傍線部(2)「出会い~のものを~知識や観察~のように思いなす」という表現には形式段落③における対立の構造があります(構造図では赤⇔で示している)。この対立の構造を読み取れば難しくはないでしょう。

 傍線部(2)における「出会い」とは「作品との出会い」のことであり、そこには過去の「作品の読み」から現在の「作品の読み」との違いを生み出す「歴史的な経験」が存在し、この場合の「歴史的な経験」とは過去と現在に存在する対立・矛盾するものをより高い次元で統合していく「弁証法的否定的な創造性」が働いている経験なのです。

 もちろん、このような「歴史的な経験」には「いま何といかに出会っているかという自覚」も含まれていますので、「作品との出会い」における「歴史的経験」や「出会いの自覚」の欠落・欠如した状況傍線部(2)「もっぱら知識~問題で~思いなす」ことであり、また、「専門家の陥りがちなワナ」ということになるのです。

正答:作品研究において過去と現在に存在する対立や矛盾をより高い次元で統合する弁証法的で否定的な創造性の働きやその自覚もないままに学問が硬直化していくこと。(74文字)

 本文の後半では、「作品の読み」が「過去と現在との対立や矛盾を弁証法的で否定的な創造性によってより高い次元に統合されていく」といった「歴史的な経験」が、自他関係における「読みの違い」の軸を加えることでさらに詳細に語られていきます。

●小問三は、内容説明問題です。
 傍線部(3)がある形式段落④の第二文目に「その変化~無媒介に超個人的~ない」と語られており、個人の読みの変化に「他者」が関わっていることが予想されます。次に第三文目で「時代による読みの変化」と「個人における読みの変化」とが相互に包み合うとし、第4文目で「個人~変化」に「他者との共時的な関係」が現れると続きます。

 そして、傍線部(3)では、過去から現在(今日)の間における個人(私やあなた)の「(通時的な)読みの変化」に介在する個人(私やあなた)と他人との「(共時的な)読みの違い」の関係がいよいよ語られていくのです。

 図のように、ある時間における個人(私やあなた)と他人との「(共時的な)読みの違い」も実は通時的に、つまり時間の流れの沿って過去から現在へと時間的に動き(変化し)ながら、常に個人(私やあなた)の「(通時的な)読みの変化」に交差(交叉)していくとされます。

 このことを、傍線部(3)では個人(私やあなた)の「(通時的な)読みの変化」は、個人(私やあなた)と他人との「『(共時的な)読みの違い』通時態」だと表現しているのです。

 「通時」という時間の時間の流れや歴史的な時代の変化に沿って個人の内面の変化を理解する考え方を縦の軸に、「共時」という時間的な流れや歴史的な変化を考慮することなく、時間の流れの中のある一点に限定した上での「個人と他者の違い」を捉える軸を横軸にして、それらの二つの軸が交差(交叉)するイメージをいつもの「評論スキーマ」としてしっかりと構築していきましょう。

 また、筆者はすでに形式段落③で個人の変化をもたらす働きとして「弁証法」という表現を用いていましたが、ここでも「弁証法」という表現を用いて二つの軸の「交差(交叉)」には「弁証法的な運動(形式段落④最終文)」が働いているとしています。

★この小問の難しさは?
 今回の小問三が難しく思える理由は、共時通時(態)という用語に高校生が不慣れなこともありますが、縦軸に交差する横軸(共時的な自他の読みの違い)が縦の時間軸(通時的な個人の読みの変化)と平行して過去から現在へと時間的に動いていくというイメージ(「共時的な自他の読みの違い」通時態となって「通時的な個人の読みの変化」に絡んでいくというイメージ)がつかみにくい点があります。

 論理的な文章の基本的な骨格がどのような構造(二つの軸が交差する論理構造➡評論スキーマ)をもっているかを念頭に置いて取り組めば、十分に解答できるはずです。

正答:各個人における作品の読みは経験の重なりによって時間的に変化していくが、その変化の過程には同時代を共有する他者との読みの違いが統合されているということ。(75文字)

 正答を読んでしまうと、そんなに難しくなかったことが分かると思います。要は、時間の流れに沿って変わっていく個人の読みの変化にはその個人自身の経験だけではなく、時間の流れの中の各時間における他者との読みの違いも関わっていますよ、ということなのです。

 そして、自分自身と自他の関係性とが複雑に絡み合う「作品の読み」が「読みの時代的変化」を生んでいくという話が、次の形式段落⑤の内容となります。さらに、このような「読みの時代的変化」を正しく生み出す「作品の読み」が、小問五で問われる波線部中の「一つの歴史的経験」となるのです。

 小問五は本文全体の論理構造の問題ですから最後の設問として設定されており、その前に形式段落⑥に関する小問四が入り込んでいます。

●小問四は、理由説明問題です。
 「深読み」とは本文に書いていないこと(行間)を「主観的」に読み込むことと語られていますが、そのような「深読み」が何かを読む場合に起きやすいのはどうしてか?という問題です。

 形式段落⑥の冒頭にある「これ」とは、前の形式段落⑤の「私たちが作品を読むということは歴史的経験であり、自分の経験そのものが歴史的である」という内容を指しています。でも、私たちの作品の読みが歴史的経験であるということと、私たちが作品を勝手放題に主観的に「深読み」することとは別物ですというのが形式段落⑥の主旨です。

 構造図から分かるように、筆者は主観的な「深読み」が起こる要因を「ことば」自身のもつ多義性に求めています。私たちの生活の中で用いられる「ことば」の意味は、時代背景や場面、語り手と受け手の自他関係などの在り方に多義的に(多種多様に)変化していきます。

 そのような「ことば」の多義性ゆえに、本文の示すもののが何かということの区別も不分明になりやすく(本文では「顕在的でなく」という表現)、その結果、文学作品などに用いられた「ことば」にはどんな意味があるのか、またはないのかといった主観的に「行間を読む」ということも生じてきます。

 ですから、意味が多義性や曖昧性に満ちた「ことば」で構成された作品を読む場合に、形式段落③・④・⑤で語られてきた「自分の読みの変化」「自他の読みの違い」に留意し、そのことを十分に弁えながら作品を読んでいかないと、今の自分の主観でしか読まないといった読み方が「行間」に入りやすくなるというのです。

 以上、「ことば」が本質的にもつ意味の「多義性」「曖昧性(もしくは本文の表現を応用すれば『非顕在性』)」を理由の中心に据え、「自分の読みの変化」「自他の読みの違い」にも言及しながら「深読み(主観的な読み方)」が起こる理由を記述すれば、論理的な構造のしっかりとした答となるでしょう。

正答:ことばの意味は日常生活における個人的体験や他者との関係の中で多様で曖昧な性質をもつ以上、自分の読みの時間的な変化や自他の読みの違いに留意するといった客観性を失うと、作品の読みが今の自分の主観だけに頼ったものとなるから。(109文字)

 さらに、この形式段落⑥の内容によって形式段落⑤までに語られたものが、実は「ことば」のもつ「意味の多義性」や「曖昧性(もしくは本文の表現を応用すれば『非顕在性)」を前提としていたことも分かってきます。

●小問五は、本文全体の論理構造を踏まえて記述する内容説明問題です。
 
 波線部のある形式段落⑤の冒頭には形式段落④を指して「こうした過程が~読みの時代的変化を生みだしていく」とあり、この「過程」を経験することが波線部「歴史的経験」に該当します。

 また、「こうした過程」とはもちろん形式段落④中の小問三で理解した「作品の読み」が変化する過程であるので、小問三の答小問五を解答する際の中核になっていきます。

 つまり、作品の読みが歴史性を持つためには、作品を読むことが共時的な自他の読みの違いを時間的な動きを通して常に統合させる経験でなくてはならないという筆者の中心的な主張をしっかりと解答のなかに記述することが重要だということです。

 その過程を経験することが、形式段落④第二文目「無媒介に超個人的なもの」というような個々人の個人的経験に留まるものではなく、また、形式段落⑤冒頭文「こうした過程が曖昧に入りくみ、複雑にからみあい~読みの時代的変化を生み出していく」という働きをもった経験であるというようも本文では述べられています。

 この二ヵ所からも波線部「作品を読む~一つの歴史的経験」という表現内容は、あらゆる個人の「読みの変化」が全ての他者との「読みの違い」と複雑に絡み合いながら「時代の読み」を作り出す経験だということがよりはっきりと理解されるのです。

 さらに言えば、形式段落⑤の最終文「自分の外側に~不可能なはずだ」も、自分の読みに他者の読みを複雑に取り組むことで自分の経験が歴史的なものになり、それが自分の内側に歴史をもつことを可能にすることなのだという意味として解釈できます。

 ただ、この小問五は本文全体、つまり本文の論理構造全体を答えさせる設問です。ですから、本文全体の論理的構造の中で歴史的経験となる「作品の読み」の対極にあるのが、小問二「否定的創造性の欠如した、知識や観察の対象としてしか作品を読まない態度」や、小問四「言葉の多義性ゆえに陥りがちな行間に対する主観的な読み方」でした。小問二小問四に共通する要素を筆者の言葉で簡潔に示すなら、まさに「無媒介で超個人的なもの」とでも呼べるような読み方でしょう。

 以上、その全体の論理構造を明確にして記述していきましょう。 次の答は、これまでの小問二から四までの解答を踏まえ、全体の論理構造が答の記述内容から伺えるように書いてみました。

正答:作品の解釈が否定的創造の産物として時代的な変化を生み出すには、個々人の読みが共時的な他者との読みの違いを時の流れに沿って統合していく経験でなくてはならず、その経験は作品を知識や観察の対象とする態度や個人的主観に依拠した恣意的な読み方の対極にあるということ。(128文字)

次に、小問五の答をもうひとつ別案として示します。内容は上の答と同じ主旨で同じ全体の論理構造を表現を変えながら書いていますので、読み比べてみてください。

正答別案:歴史的な作品理解の変化は同時代を生きる他者との読みの違いを弁証法的に統合して変化する個々人の読みの経験が時間の連続性の中で相互に関連して生成されるが、その生成の過程にとって一過性の知識や観察、また個人的な主観などに依拠する恣意的な読み方は意味をもたないということ。(132文字)

●問題を振り返ろう!

★最終小問での「全体を踏まえた」設問とは?
 京大もそうですが、九大、阪大、東大など国公立のまともな評論問題は、全体の論理構造をまとめさせるための小問を最後に設定します(まれに途中の小問に全体問題を設定する大学も…)。

 それは、評論問題(随筆も含む)が論理的思考力・批判的思考力のレベルを測るのが論理的文章を読解させる目的ですから、当然でしょう。筆者が自らの主張の正当性を訴えるためにどのような論理を本文全体で構築しているかを問うことで、読み手の論理的思考や批判的思考の力を測るわけです。

 これは、センター入試の評論の最終小問で問われるような冒頭の段落から最終の段落までの論理の流れや主張の内容そのものを問題とは大きく異なります。二次評論問題で問われるのは、あくまで二項対立軸を基本にした本文の論理構造です。

★全体の論理構造を俯瞰的に見極めようとする視点とは?
 この29年度京都大学「大問二」評論(文系用)の解説でも理解できたと思いますが、全体の論理構造を問う最終小問へ辿り着くまでに各小問を解答している間も、常に本文全体を貫く大きな「価値体系軸」を見極めようとする意識を持つことです。

★今回の京都大学「大問二」評論(文系用)では?
 前項の価値体系軸」とは両極に対立的・対照的な価値観をもつ二項対立軸ですし、「二項対立軸の交差する論理構造(個人の時間軸VS自他の共時的関係)」を本文中の表現ではっきりと示しています。

 したがって、一般的には、「二項対立軸の交差する論理構造」の見極めを全体の論理問題として受験生に求めるのですが、今回の「大問二」では本文に明示されたその「論理構造」を、部分的な内容問題として小問三で説明させているのです。

★小問三と小問五の重複と異同について
本文に波線を引いて、小問三における自己の時間の流れに沿う通時的な読みの変容の軸と、自他の同じ時間における共時的な読みの違いの軸との交叉、つまり「二項対立軸の交差する論理構造」をもった「ポジティブな読みのあり方に、学問の硬直化を招くような「ネガティブな読みのあり方」を対立させるという本文全体の論理構造問題を改めて設定していることが理解できれば、小問五の記述問題に十分に対応できます。

さらに、小問三ではある個人に特定した観点から「二項対立軸の交差する論理構造」を論じていますが、この「二項対立軸の交差する論理構造」は、小問五では小問三における特定の個人があらゆる人々へと敷衍されて、個人はある場合は「自己」であると同時に「他者」ともなり、こうして人々の読みが相互に複雑に絡み合いながら「読みの歴史的変化」を生み出すという時代的な普遍性を帯びていくと筆者は述べています。

●そのことが、本文では形式段落⑤の冒頭文「こうした過程が曖昧に入りくみ~時代的変化を生み出してゆく」第2文目「時代に挿入されて生きる個人間の諸関係の網の目が織りあげる模様」という比喩的な表現で示されているのです。

平成28年度(2016年)京大「大問一(文理共通)」は随筆、後半にゆるい論理構造!

★現在と過去をつなぐのは想像力、それともオウムガイ⁉ という話★
 平成28年度京大二次試験「国語」大問一(出典:松浦寿輝氏『青天有月』)は、文理共通の随筆問題。
前半はいかにも「随筆」。カーンとポンピアの研究を詳細に記した後、その二人の仮説を受けた筆者の主観的な感懐が語られている。

 グールドの懐疑論に耳を貸すことなく、カーンとポンピアの仮説から生じるオウムガイのイメージが魅力的だと、ただ筆者の主観を述べるにとどまっている点が、なるほど「随筆」といって差支えがない。
 
 しかし、後半になると、かなり論理的な構造がはっきりとしてくる。それがこの問題文の面白さであり、作問者も「『随筆』風の『科学』的文章であって、しかも、論理的構造もあるから複数の設問化も可能だろう」と判断して出題したのだろう。

★全体の論理構造★
 問題文は4個の段落で構成されている。先ずは段落順に①~④と番号を振っておこう。段落①/②が前半、 段落③/④が後半と内容的に分けられる。

●前半:段落①/②

前半:段落①/②
 段落① は 、カーンとポンピアの仮説紹介。カーンとポンピアの名前を含む文が三つ(1行目/5行目/15 行目)あり、その三つで彼らの研究内容はまとめられる。つまり、「カーンとポンピア」の名前が 傍線部(A)小問二 に答えるための、まさに案内役ということになる。
 それに加えて、8行目「すなわち、四億~のである。」17行目「彼らはその眼で~巨大な月~のである。」の二文が段落②の筆者の感懐に繋がっていく。 言い換えれば、ロゴス(理性)よりもパトス(情念)が先行して語られていく。

 段落② は、筆者の感懐。「カーンとポンピアの仮説」に対する「グールドの懐疑論」が存在することを示唆しながらも、筆者は特段の論理的な根拠も提示せずに、「魅力的だ」という個人的な心情から「カーンとポンピアの仮説」を諾うというところが、この問題文にいかにも随筆的な趣を与えている。この個人的な心情が 傍線部(B)小問三の解答の中心となる。

★次の図からは、後半(段落③/④)の内容が加わる。

後半:段落③/④
 段落③は、現在から自分が一度も見たことのない過去を想像する場合、人間の想像力という営為によっていかなる人工的なイメージを作り上げても、現実に起こった過去を再現できるものではないと筆者は考えている。本文の場合、四億二千万年前の月光は人間の肉体的限界を超えた昔の光であって、それは精神の営為としての人間の想像力をもってしても決して得ることのできないものだと、筆者は繰り返している。

 つまり、現在から過去を人間の想像力によって再現することの不可能性もしくは貧弱さを述べているのである。

 段落④は、段落③の「人間の営為としての想像(力)」に対する「確固とした事実」がキーワードとなって、後半の段落③/④全体の論理構造が組み上がっていく。

 四億二千万年前のオウムガイもしくはその九本の微細な線は、「確固とした事実」として、現在という時間の中で厳然と目前に存在している。そして、そのオウムガイの九本の微細な線によって、四億二千万年前の巨大な月とその光が「確かに存在したもの」として筆者は「知る」のである。

 以上のことから、「想像」によって現在から過去へと向かうことの安っぽい感傷や貧しさと、現在のオウムガイの九本の線という「事実もしくは物的証拠」から過去に存在した現実(ここでは巨大な月の存在)を「知る」ことから生まれる感動とを、筆者は対比的に語るのである。

 ただし、後半でも「想像」することが「安っぽい感傷」であり、「知る」ことが筆者を「感動」へと誘うという考えは筆者個人の主観的な判断であって、それが客観的な普遍性をもつということを論理的に解明してはいかない。

 あくまでも筆者自身の意見や感想という段階で本文は終わっており、大雑把で緩やかな論理は存在するが、その構造が精緻な論理的整合性をもつものに至っていない点が「随想」的な素材文と言える所以である。

★小問解説★
 小問ごとの論理構造図を見ながら、解説・正答を確認しよう!

小問二(傍線部A)
 「カーンとポンピアの仮説」をまとめればよい。前述したように、段落①に記された「カーンとポンピアの名前」を指標・手がかりにして、本文構造図のブルーの枠内(問二)を文章化する。筆者の主観的で個人的な心情・感懐を排除して小問三の解答と極力重複しないように、「カーンとポンピアの仮説」という事実関係のみをまとめることが大切である。

 大手予備校のほとんどが小問三と明確に区別していない解答例を出してしまっており、この文章の前半が随筆(事実+個人的見解)という意識が希薄なようだった。

正答:太陽の周期に対応して海面に浮沈するオウムガイの殻の細線は一日ごとの成長の記録を示すので、四億二千万年前のオウムガイの殻の線から当時の地球のひと月が九日間であることが分かり、そこから算出すると当時の月は現在よりもずっと地球に近くて巨大に見えていたこと。(解答欄5行:125文字)

小問三(傍線部B)
 「カーンとポンピアの仮説」とそれに対する「グールドの懐疑論」の是非を論理的・客観的に判断して述べることを、筆者は回避している。それほど「カーンとポンピアの仮説」から生じた情景が筆者にはあまりにも魅力的だったからだ。言い換えればロゴスよりもパトスがまさったということであろう。

 「グールドの懐疑」と「カーンとポンピアの仮説」の是非を理性的に論じるのが憚れるほどに、「カーンとポンピアの仮説」から誘われた情緒的・情動的な情景が筆者にとっては誠に「魅力」があったと示せばよい。先ほども言及したが、ロゴスVSパトス(理性VS感情)の二項対比を記述の骨格にすればキレイな整った文章となろう。

正答:カーンとポンピアの仮説に対するグールドの疑問について、両者の学問的な正当性を客観的に論議することを避けたくなるほどに、カーンとポンピアの仮説が想起させる巨大な月を海上で眺めるオウムガイの姿に深く心を動かされている。(解答欄4行:107文字)

小問四(傍線部C)
 既出の「全体の論理構造 段落③/④」の説明を踏まえて、想像と現実、現在と過去という二つの軸で、想像の無力(貧しさや安っぽさ)を指摘する文章を作成すればよい。

正答:現在から過去に起きた現実を人間の想像力によってどのようなイメージを作り上げても、それは現在の目前にある事実を根拠にして過去の現実を知ることには遠く及ばない単なる感傷に過ぎないから。(解答欄3行:90文字)

小問五(傍線部D)
 既出の「全体の論理構造 段落③/④」の説明を踏まえて、現在と過去という時間軸に、現在と過去をつなぐオウムガイという事実とそこから生まれた筆者の感動を記述すればよい。

正答:現在に残る太古のオウムガイの九本の線という厳然たる事実によって、四億二千万年前の遠い過去において巨大な月やその光が現実に存在していたことを、それらを見たこともない今の自分が知ることができたと筆者は深い感銘を受けているということ。(解答欄4行:114文字)

●問題を振り返ろう!

随想風の素材文だったので、肩の力を抜いて「事実」と「感想・意見」を区分けしながら読んでいても、簡単な論理構造は見えてくるだろう。見えれば、冒頭で「過去と現在をつなぐのは想像力、それともオウムガイ!?」と言った意味が分かる。

※ 同じく28年度の九州大の大問二が、同じような論理構造をもった随筆文、参考にしよう!

平成28年度(2017年)の京大評論「大問二(理系学部)」は、高2後半~高3前半の教科書レベルのシンプルな論理構造!

★コミュニケーション(情報の伝達)は「耳」からか「目」からか?、という話★
 平成28年度京大二次試験「国語」における評論問題は、理系学部の大問二(出典:樺山紘一氏『情報の文化史』)のみ。文系学部の現代文は随筆と小説。
 評論問題は理系を対象したものだから、論理構造は非常にシンプルで分かりやすくい説明文レベル。同年度の名古屋大も、理学部・医学部を含む受験生を対象にした評論だから、同じレベルの二項対立で整理して構造化が図れる。下のボタンをクリックすると、河合塾が無料公開のPDFファイルにジャンプ、大問二評論問題を参照。

★全体の論理構造★
 大問二はリード文で「情報がいかに伝達され、共有されたか」と、問題文の主題を解釈してくれている。因みに、小学生に「人が情報をやり取りするときって、最初に思いつく構図は?」と尋ねたら「情報の『送り手』と『受け手』」と答えてくれた。「スキーマ」というのは、実は意外と無意識に経験知として身についている。しかし、それを明瞭な形として自覚的に用いることが、入試の評論問題に対応する受験生には不可欠。

 問題文には、「肉声による音声通信と書物(紙)での通信」があるので、情報の伝達手段における「聴覚」か「視覚」かという軸ができる。この軸に、情報の「送り手」と「受け手」という軸が交差して、左図の上のような本文全体の論理構造ができ上がる。 論理構造のシンプルさ、読みやすさは、高2の教科書でよく見かけるレベル。きっと高校生自身もそう実感するだろう。
 

★小問の解説★
 小問三つで構成されたこの問題、全体の論理構造を問う設問がないというところが、東大の評論との大きな違いである。
 各小問が問題文全体の論理構造のうち、どこを設問の対象としているか。その箇所を「ブルーの丸囲み」で示した。

 

小問一
 聴覚による情報の伝達を受け手側から捉え、受け手側が発揮する能力(音の識別)を、図中の「丸囲みの論理構造」に位置付けて記述する。

正答:政治的にも宗教的にも肉声という聴覚に頼る通信手段が中世ヨーロッパの人々の日常を支えていた時代には、全ての聴覚的情報が判別すべき重要な意味をもっていたということ。

小問二
 視覚による情報の伝達の在り方を問う問題。装飾を施された挿画付の写本が、情報の送り手と受け手にとっては、ただの通信通信ではなく、「芸術品」という価値をもっていたということを、図中の「丸囲みの論理構造」を踏まえて記述する。

正答:中世ヨーロッパにおける写本は、空間的・時間的な距離を超えて発信者の強い通信欲求を満たすのみならず、細密挿画などの装飾的な美しさによって当時の人々には芸術的に高い価値をもつものであったということ。

小問三
 視覚的な情報の伝達手段「絵画」が、「送り手」側の画家にとって「強い通信欲求」に基づく「物語表現」の手段であった。同時に、「絵画」は そのような「送り手」側が語る物語を「受け手」側が解読すべき対象でもあった。設問のような画家の関心が物語の表現に集中されていた根拠が、図に示されたような「絵画」をめぐる「送り手」側と「受け手」側の関係性であることを説明すればよい。

正答:中世ヨーロッパにおける絵画は単なる美術的な鑑賞の対象ではなく、人々に視覚的な情報として物語を語るといった記号的な役割を担っており、その場合、情報の発信者である画家には当時の人々が読み解くべき物語としての情報を絵画の中に描く必要があったから。

●問題を振り返ろう!

 全体の論理構造は明確なので、東大評論の小問(五)のような設問、つまり評論文全体の論理構造を問う設問を想定して、この京大評論文全体の論理構造を文章化する練習をしてみるとよい。

※ 評論問題として本講座で取り上げたうち、28年度の東大、大阪大、九大の「大問一」、名古屋大などの各評論が今回の京大評論と同じレベルの論理構造だから、二項対立の交差する「評論スキーマ」を身に付けるためにも、それぞれの評論問題に必ず目を通しておこう!

 「知性主義と反知性主義」と「個人と集団」の軸によって知性の在り方を考察した28年度東大のテーマに比べれば、この京大問題は評論というより筆者独自の主張は展開されない解説文・説明文に近い。

コラム:入試評論では、抽象的な用語の難解な印象に惑わされずに、論理構造を優先!

★論理的な構造は目で確かめられる★
 評論文を読解する難しさを伝えようとして「観念的だ」「抽象度が高い」という言葉を使う人が見受けられます。なるほど「典型的な病理性」や「自己再帰性」などの表現を見ると、高校生にはその表現の意味は実感的に理解しづらいかもしれなせん。でも、旧帝大系を中心とした入試の評論問題で問われる読解力は、字句レベルの辞書的意味ではなく、問題文のもつ「論理的な構造」を読み取る力です。また、論理を「構造」という以上、それは具体的な姿・形として図化できるもののはずです。

 観念的・抽象的な語句の辞書的な意味や用法の論議は、3,000~5,000字程度の文章に何時間も費やす学校の授業に任せ(勿論、そのような部分解釈型授業の地道な積み重ねが高校生の基礎・基本的な語彙理解を支えているのは事実です)、論理の全体構造の理解を促す「構造分析型」の発問や、「論理構造の構築するスキル」の獲得、「全体的な論理構造」を必ず示唆する振り返りなどは、入試の評論問題に対応できる読解力を高めるために必要です。

 これまで本講座を読んできた人は、「入試評論」 の難易度を決定するのが、論理構造を構成する価値体系の軸の多寡(多いか少ないか)、もしくは書き手の価値判断の基準を示す軸の両極にある視点の数である、ということを既に理解しています。  図を見て入試評論文の難易度とは何だったか、ここで改めて確認してみてください。トップページで東大過去問(左から平成28年度、平成27年度、平成26年度)を並べると、論理構造を構築している軸の数や緑で示した点(書き手の価値判断の基準となる視点)の数で、難易度は一目瞭然でした。

★大学が現代文で求める学力とは★
 授業でなら何時間もかけてしまう長さの評論文を、入試の評論記述問題では2,30分から一時間程度で解答を完了する必要があります。そして、一読して全体の論理構造を理解し、各小問が全体の論理構造のどこを問題の対象にしているかを即座に見抜く力こそ、大学が入試で受験生に求める論理的思考力なのです。
 
 次は、平成28年度の九大二次試験国語の評論問題(文系全学部共通)。九大の過去問の中では、いわゆる「観念的で抽象度が高い」難しかった問題といわれています。しかし、表現自体は観点的で抽象度が高いが、実際の論理構成はごくシンプルという評論問題の良い例ですから、九大ならずとも旧帝大系の難関大学を目指す人は、一度、このタイプの評論問題に目を通していてください。

平成29年度(2017年)九大評論(大問一文系)は易化、論理構造を重視して読もう!

★バーチャルリアリティーが人間のもつリアリティを変えていく、という話★
 平成29年度九州大学二次の「大問一」評論は文系全学部に共通の問題( 出典:北原靖子氏『ヒトらしさとは何か ヴァーチャルリアリティ時代の心理学』所収「プロローグ」)です。

★全体の構成について★
次の図は全体の論理構造の前半です。形式段落毎に番号を振って、前半は形式段落⓵~⑦です。

★次の図からは、後半の内容が加わります。
 後半は形式段落⑧~⑫ですが、ここでは全体の論理構造を分かりやすくするために、形式段落⑧~⑩の内容は図から省略しています。後の小問4及び小問5の解説で確認してください。

★小問の解説・解答★
各小問の正答例は青フォントで示しています。また、小問6漢字問題は省略します。

●小問1は、内容説明問題(傍線部A)です。
「意識(問題に)するかVS意識(問題に)しないか」という構図における「リアリティ」と「ヒトらしさ」の共通性を問う設問。

 リアリティに関して「ふだんなら」意識していませんが、バーチャルリアリティという新技術に接したときにリアリティとは何かを意識します。同じように、「ふだんは」ヒトらしさも生きるのに手一杯で意識するどころではありませんが、実は具体的な人間関係においてはヒトらしさに敏感に問題としています。本文中の二つの「ふだん(本文1行目と6行目)」に着目すれば、「意識(問題に)するかVS意識(問題に)しないか」という論理の軸に気づくことができます。

正答:普段は意識しない生活上のリアリティの意味をヴァーチャルリアリティという新技術によって改めて意識する点と、日常は自覚しないヒトらしさを実際の人間関係の中では非常に敏感に意識するという点。(92文字)

●小問2も、内容説明問題(傍線部B)です。
 ヒトらしさ、つまり人間性豊かなお医者さんとはどんな人かを説明する問題です。形式段落④に「腕のよい医者VS人間味のある医者」というゆるい軸がありますから、この辺りを取り敢えずまとめておけば良いのです。

正答:高い医療技術をもつ以上に、痛みや気持ちなど患者の個人的な事情に共感的な理解ができる人間性豊かな先生。(50文字)

●小問3は理由説明問題(傍線部C)です。
 傍線部Cに「その問題」とありますから、指示語に従って形式段落⑦、さらに⑥に戻ってみましょう。
 
 形式段落⑥には、「ヒトらしさ」が日常の人間関係で非常に重要であるにも関わらず、その成り立ちを知らないとあります。そして、形式段落⑦では、その「ヒトらしさ」とはいつも毎日の人間関係の中で常に抽出され、浮かび上がってくる「重い意味」をもっているのだとしています。

 つまり、「ヒトらしさ」を感じ取る精神性や感受性といった「こころ(この言葉は、形式段落⑥4行目、形式段落⑦1行目、ついでに先に言うと形式段落⑨1行目と2行目に出てくることに着目!)のあり方を中心とする人間存在の「リアリティ」は、日々の人間関係で非常に重要であるにも関わらず、その成り立ちを知らないということです。このことを形式段落⑧では「ヒトのリアリティをめぐる問い」と筆者は表現しており、これこそが傍線部C「その問題」の指す内容です。

 そして、形式段落⑨では、現代は「こころをもったヒト」という人間存在のリアリティが、自然科学の解明(例:脳こそ実体、もしくは利用可能な臓器をもつモノとしての人間)によって「実体のない」こととなってしまった時代だというわけです。つまり、人間のリアリティは何かを考えるとき、現代は「こころVSモノ」という論理の軸がはっきりと立ち現れている時代だということです。非常にわかりやすい、よく見かける構図です。

 「こころ」という言葉が何度も繰り返し出てくれば、「モノ」に相当する語彙や表現もいずれ出てくると想定して読み進めるのが「評論スキーマ」ですから。

正答:心の側面から考えるヒトらしさの成り立ちという課題が、自然科学の進展の中でモノとしての人間という視点が生まれることで、より複雑なものとして顕在化してきたから。(78文字)

●小問4は内容説明問題(傍線部D)です。
 上の図の「ヒトらしさ自体の変容」の左右を見れば、傍線部D中の「変容」が何から何への変化を言っているのかが一目瞭然です。右側は他者と本当に会うときに感じる「ヒトらしさ」、左側はパソコン回線上で話すときに感じる「ヒトらしさ」です。つまり、パソコン回線という対話装置の登場によって「ヒトらしさ」というリアリティをめぐって「実体を知る他者との関係VS実体を知らない他者との関係」という論理の軸が新たに加わってきたというわけです。

正答:実体を知る他者との関係の中から生まれる「ヒトらしさ」が、パソコン回線というモノを介すことで実体を知らない他者との関係の中から感じられるようになること。(75文字)

 大手予備校の大半が、小問3小問4の区別ができないような解答例を示しています。その過ちは、小問3では「こころVSモノ」小問4では他者の実体をめぐる「既知VS未知」といった各々の論理構造の違いをはっきりと識別できていないことに起因しています。

●小問5は内容説明問題(傍線部E)です。
 九州大学も、問題文の全体的な論理構造を問う問題になってきています。この小問5がその典型であり、前半と後半に分けて答えるような工夫(実際の解答順は、後半➡前半になっています)もしています。図で示した論理構造をしっかり確認しましょう。

これまでになかった新たな問題
 最終段落で言及する「ヴァーチャルリアリティの登場」によって、人間存在におけるリアリティ問題の複雑化・顕在化が一層明らかになったことです。さらに、人間性(人間味)といった「ヒトらしさ」自体の変容が「ヴァーチャルリアリティ」という「人工的に作られたリアリティ」によってより加速化してきたことです。
 
 以上を、「モノVSこころ(心)」という論理の軸に、「現実(実体)VS仮想(ヴァーチャル)」もしくは「実体の有りVS実体の無し」という論理の軸を加えた文章をまとめてきます。

正答:実体を伴う他者との直接的な心の交流より、ヴァーチャルリアリティ技術の発達によってモノを介したり人工的に作られたりした実体のない「ヒトらしさ」の方に、人間のリアリティを感じるようになったこと。(95文字)

以前からあったはずの問題
 普段は明確に意識していないにせよ、実際の日常における人間関係では常に敏感に感じ取ったり問題視したりしている「ヒトらしさ」。ところが、その「ヒトらしさ」(他者から感じ取れる「こころ・人間性」)が、どのようにして成立しているのかをほとんど知らないままでいる、というのが前半の内容でした。

 以上、後半の「モノVSこころ(心)」という論理の軸へとつながっていく「ヒトらしさ➡こころ(心または人間性)」を中心に前半をまとめます。

正答:私たちは日常の人間関係の中で常に「ヒトらしさ」を敏感に感じ取りながら生活しているが、その「ヒトらしさ」の核心である心の成り立ちを知らないままでいること。(76文字)

●問題を振り返ろう!

★小問3、小問4、小問5について、論理構造を明確に意識して解答する必要がある!

 小問3は、「ヒトらしさ」をめぐる「こころVSモノ」という論理の軸を骨格にした記述内容で解答します。
 
 小問4は、「ヒトらしさの変容」を「実体を知る他者との関係VS実体を知らない他者との関係」という論理の軸を骨格にした記述内容で解答します。
 
 小問5は小問1から小問4までの設問を解く過程で組み立てた問題文全体の論理構造、すなわち「ヒトらしさ」を考察するために組み立てられた「こころVSモノ」と、ヴァーチャルリアリティ技術の進展・発達によって生じた「現実(実体のあるもの)VS仮想(実体のないヴァーチャルなもの)」という二つの軸の交差する全体の論理構造をしっかりと理解します。
 そして、前半では「ヒトらしさ」の成り立ちが分からないという問題、後半では「ヴァーチャルリアリティ」の登場によってリアリティを生み出すそのものが実体の有るものなのか、それとも実体の無いものなのか、その境界が不分明になってきたという問題をそれぞれ記述内容の骨格にして解答すればよいのです。

★小問相互が重複した問題か?
 今回の設問(小問3~5)でも、大手の予備校は解答内容が重複しているので書き分けに戸惑うとコメントしていましたが、前述したように各設問毎に論理構造の骨格となる論理の軸は明らかに異なっています。
 
 従来のように、読解力というものを問題文の部分的な解釈という視点でとらえてしまうと、各設問がどのような論理構造を求めているのかが分からなくなってしまい、解答内容がみな同じようなものになってしまいがちです。
 今年度の京都大学二次「大問一」随筆(文理共通問題)小問三でも、問われているのは二項対立の論理的な構造(構図)なのだということをしっかりと念頭において問題文を読めば、設問が求めているものが何かがはっきりと見えるはずです。

★昨年度の九大で出されたパラドックスという論理の説明問題は今年度は大流行!
 パラドックスという論理については、今年度の東京大評論の「問題を振り返ろう!」で既に述べましたが、改めて以下に列挙します。

●平成28年度大阪大学(文学部以外の文系)評論問題Ⅰの小問四は、「大衆のルサンチマン」は政治権力にとって相反するパラドックス的な存在という問題でした。
●28年度九州大学 (文系全学部)大問一の小問6は、人間の行為の結果が「予見できないということが、予見できるという人間の思い込みを強める」というパラドックスの説明。
●29年度東京大学 第一問(評論)の小問(三)は、科学技術は人間の営みから「離れている(ニュートラル)」が故にこそ人間の営みと「密接に関わる(アン・ニュートラル)」のだ、というパラドックスの説明。
●29年度京都大学(理系学部)大問二の小問二は、「小説の作者の客観的な執筆態度が読者の主観性を助長する」というパラドックス的発想の説明。
●29年度京都大学 (文理共通)大問一の小問(五)は、「不調和な部外者こそ、調和的な世界の内部が理解できる」というパラドックス的な発想を根拠とした理由説明問題。
●29年度 大阪大学 (文学部を除く文系学部共通)「大問一」の小問二は、「無常(はかなさ)の追求こそが、かえって生の充実(有常)につながる」というパラドックス的な発想の説明。
●29年度 東北大学(文系共通)「大問一」の小問(四)は、「『様式化』された絵画ほど『写実的』な表現である」というパラドックス的発想でのエジプト壁画の説明。

以上、パラドックス(逆説)の論理が苦手な高校生はこれらの問題を確認して、ぜひ克服しておきましょう。

平成28年度(2016年)九大評論(大問一文系)は、抽象的な用語より論理構造を重視して読む!

★結果がわからないまま行動してしまったことに、責任が問えるか?という話★
 平成28年度九大二次試験の国語問題「大問一」評論は、文学・教育・法・経済など文系全学部に課せられた同一問題(出典:檜垣立哉氏『賭博/偶然の哲学』)。

★全体の論理構造★
 冒頭の一行目「自己責任が云々される」から問1として設問化され、問題文最後の一行にも「自己責任を語りたがる」とあり、「自己責任」が「自己の行為(の結果)」と関連づけられて、一貫して問題文全体の論理構造の基軸となっている。
 さらに、「自己責任」については、問題文第1段落から第3段落にかけて、「(行為の結果に対して)予見可能」か「(行為の結果に対して)予見不可能」かという二項対立の論理構造の中で、その「自己責任」の有無が論じられており、それがもう一つの軸となる。
 つまり、「自己の行為(の結果)」を中心に「自己責任の追及の有無」の軸と「行為の結果が予見可能か否か」という軸が交差する全体の論理構造が、第3段落までで、一旦、でき上がっている(図の最も右側の論理構造)

 

 次に、第四段落から第七段落にかけて、「自己責任の追及」という事態を招く「自己の行為」もしくは「自己の行為の結果」の意味や価値は、原理的にそもそも「予見不可能」なのだという主張が、「自由な選択(小問3)」「自他関係(小問4)」「時間軸:現在と未来(小問5)」などの観点から説明される (図の真ん中の構図)
 
 その「自己の行為の結果(の意味や価値)は原理的に予見不可能」という主張が、第3段落までで形成された全体の論理構造に付け加えられて、この問題文の内容は終了となる (図の最も左側の論理構造)。  

★この評論文の読みづらさは?★
 
 この文章が一見、読みづらい印象を与えるのは、 第3段落までで全体の論理構造はでき上がるのに、その論理構造に新たに追加される筆者の主張が、第四段落から第七段落(最終段落の直前)までの間に比較的長く挿入されている点にある。
 
 第3段落までで、実際の問題文の全体的な論理構造がいたってシンプルなのが分かった人には、この大問一は決して難しくないが、 この挿入された箇所に「枝問」である小問が3個も作られている。
 
 つまり、小問3・4・5すべてが、全体の論理構造上、行為やその結果は原理的に予見不可能な賭けであることの「証左」となる事例なのである

★小問の解説★
 次の図で各小問を見ていこう。全体の論理構造のうち、各小問が問題の対象にした箇所が「ブルーの丸囲み」
で示している。論理構造は上の図と全く同じだが、見やすいように上の図より情報量を減らしている。また、各小問の正答例は青フォントで記している。

小問1
 ブルー丸囲み内の「社会のリベラル化(公平性の確保された社会で豊富な情報が獲得される社会)」によって「行為の結果」に対する「予見可能性が高まったこと」を根拠にしながら、結果責任が問われることとなったという論理構造を解答すればよい。

正答:行為の結果を予見するのに必要な情報を誰しもが獲得できる条件として社会の公平性が確保されたことが、行為に対する自己責任を問う風潮の背景となっているから。

小問2
 小問1と論理構造として真逆の、「予見不可能」な「行為の結果」に対しては「自己責任」も問われないというのが正解となる。

正答:「天災」という自然災害が誰も予見できない時代においては、その予見不可能な「天災」に対する責任を誰も問われるはずもないから。

 次の小問3/4/5は全て、人間の行為・行動そのものが原理的に予見不可能な「賭け」であるという考察の内容(図の真ん中の論理構造)に関する設問であることを理解することが、ポイントとなる。

小問3
  人間の行為(の結果)の意味も価値も予見不可能な「賭け」に過ぎないという図では真ん中の縦軸 の根拠を、「自由(もしくは自由な行動)はそもそもあり得ない」という自由の観点から論じた内容を答えていく。

正答:人間は様々な生物学的な制約によって偶然的に規定された存在であり、自由に選択した行為といえどもそれは偶然性に支配された「賭け」に過ぎないということ。

小問4
  「人間の行為の結果はすべて予見不可能な賭けに過ぎない」という縦軸 の根拠を、「人間の行為は社会体制という他者との連環の中で意味づけされる」という観点から論じた内容を答えていく。

正答:自分の行為の意味や価値が他者によってどのように判断されるかは不明なままである以上、人間の行為の結果は常に予見が不可能なものとなるはずだということ。

小問5
 「人間の行為の結果はすべて予見不可能な賭けに過ぎない」という縦軸の根拠を、「現在から未来の時空間の中で現在の行為の結果がもつ意味や価値は変容していく」という観点から論じた内容を答えていく。

正答:一定の時間枠でしか生きられない存在である人間にとって、自分の行為の結果が未来においてどのような意味や価値をもつのかを予見するのは、原理的に不可能だということ。

小問6
 小問3/4/5で明らかになったように、人間の行為やその結果を予見するのは原理的に不可能であり、行為は常に「賭け(博打)」となるのである。しかし、図の最も左の論理構造のように、現代人は「予見不可能な状況」がもたらす「不安」な気持ちからら逃れるため「行為の結果は予見可能」なのだと考えようとする。つまり、「予見不可能性」が「不安感」を伴って、逆に「予見可能性」を強化してしまっているというのが、本文でいう「典型的な病理状態(➡自己再帰性)」であり、「パラドックス性(逆説)」なのである。

正答:人間の行為とは常にその結果が原理的に予見不可能な賭けに過ぎないが、その予見不可能な状態がもたらす不安感から逃れようと、現代人はかえって自己の行為が予見可能であると妄信し、結果への自己責任を強く追及する羽目に陥っているということ。(114文字)

●問題を振り返ろう!

★28年度九州大の大問一(評論)の傾向★

 東京大や大阪大のように、全体の論構造自体を問うことは殆どない。その代わり、部分的な狭い範囲での論理構造や表現・字句自体の意味や解釈にこだわった問題が多い。

 28年度の大問一といい大問二といい、全体の論理構造より「逆説」や「矛盾」といった字句にこだわる傾向が見受けられる。また、大問一の小問1と2が同じ論理構造の裏と表だったように、大問二も小問1と2が同じ論理構造の裏と表になっており、全体の論理構造から派生したような「枝問」も多い。

 したがって、傍線部を含む文章や形式段落内で、字句レベルでの類似的な表現を見つけるといった類推の力や、二項対立の軸を形式段落ごとに意識して読むことが求められる。

※ 28年度以降の東大や29年度も含めて近年の京大、大阪大、名古屋大など他の評論は全てが、今回の九大の「大問一」と基本的に同じ論理構造。二項対立の交差した「評論スキーマ」を身に付けながら、これらの大学の評論問題には必ず目を通しておくことをお勧めする!

平成28年度の九大評論(大問二)は、随筆かも?

★有限な科学が無限な「不死の容貌」をしているのは、なぜか?という話★
 平成28年度九大二次試験の国語問題「大問二」は、文学部以外の文系学部に課せられた問題(出典:古井由吉氏『「時」の沈黙』)。全体の論理構造を緻密に組み立てた評論というより、小説家古井氏の鋭敏な感性で捉えた随想風の時代批評といえる。

★全体の論理構造★
 第2段落から第4段落まで、老若の価値観が逆転して若年化を追い求める近代から現代までの風潮が語られ、第5段落では科学技術の進歩に伴う疾病の克服によって生まれた長寿化の傾向や、二十世紀の死生観が語られている。以上が近代における「不老の顔」
 第7段落以降が本文の中心的主題。近代が帯びる「不死の容貌」はどこに潜み、その特徴は何かが語られる。
 第8段落においては、魂という無限性を有する「不死の観念」をもつことなしに、人は自己の存在を支えられるかという疑問から始まる。
 第10段落からは、有限性を根拠に展開される技術革新が、自己を規制する「限定(有限性)」を無限に更新し続けるという宿命を内包していると述べる。つまり、科学技術の本質である有限制が無限性の様相と共存していることが、近代が帯びる「不死のごとき容貌」とし、その様相を「矛盾」と捉えている。
 

 評論という論理が緻密に組み立てられるといった論理構造の完結性や整合性より、近代以降から現代までの「不死の観念」について、心に浮かぶままに書き留めていったという印象が、図の全体構造からも窺えるだろう。

★小問の解説★
 次の図で各小問を見ていこう。全体の論理構造のうち、各小問が問題の対象にした箇所が「ブルーの丸囲み」で示している。各小問の正答例は青フォントで記している。

小問1
 傍線部を含む一文の「老人」と「壮年」の二項対立で明らか。図の「黒の矢印」のように、経験の蓄積といった成熟が尊重された時代には、路頭の風景の中でも、活発に活動する若年(壮年)たちよりも老人たちの方が社会の中心であったという論理構造を答える。

正答:具体的な活動によって社会貢献する壮年より、活動することなく寛ぐ老人の方が経験の蓄積によって尊重されているから。

小問2
 図の「赤の矢印」のように、社会の価値観の逆転によって、小問1で答えた老人と若年の関係がひっくり返った都市の状況を答える。

正答:近代では常に社会の先端にいることが尊重されるため、経験を重ねながら老人へと成熟することより、活発な活動性をもった若々しさこそが最も理想的なものとされていること。

小問3
 「早瀬」が科学技術の「急激・急速な流れ」の比喩であることから、わずかな時間の前後の差によって人の生死が分かれるという論理構造(図では「」 の矢印」で示す)。縦軸が科学技術の進歩によって疾病が克服されるようになった前後という時間軸、横軸はその科学技術の進歩を分岐点とした生死の軸。この論理構造を答えれば得点できる問題である。

正答:科学技術の急速な進歩によって、本来、死ぬべき運命であった自分が一瞬の時間の差で生き残ったことに対する奇妙なやましさのこと。

小問4
 近代の定義を問題文から抜粋する問題。近代の科学的な世界観によって魂の存在を前提にしない反面、魂の観念なしには生きられない近代人の姿を「凝固」と表現している。

正答:近代の科学的な世界観に即して考える人間

小問5
 やはり小問4で考えた「魂の存在を前提としない」、つまり、不死の観念を拒否してきた近代社会を答えればよい。

正答:近代以降、人間は魂といった不滅の存在を否定しながら、科学技術の有限性を信奉して社会を発展させてきたということ。

小問6
 図の最後の構図の赤の矢印の通り。科学技術の「限定性」が内包する「無限性」という「矛盾」を答えればよい。

正答:不死の観念を否定して限定的な条件下で技術を展開してきた科学技術の有限性と、科学が規定したはずの限定的な枠組みを科学自身が常に更新し続けるという無限の営みが醸し出す不死のイメージ。

※ 同じく28年度の京都大の大問一が、同じような論理構造をもった随筆文なので、必ず確認しておくこと!

「振り返り」で応用力向上を目指そう!

 ここまでの過去問で全体の振り返りをしましょう。 
 
 振り返りは大切です。認知カウンセリングの世界では「教訓帰納」といって、「学習したことから何を学んだか」という教訓を自ら得ることで、ますます応用力がつくと言われます。 
 
 図は、本講座で用いた過去問の論理構造を、易➡難の順で右から左に並べたもの。後日、時間に余裕があるときに、それぞれの問題文を読みながら「評論スキーマ」を盤石なものにし、それを起動させながら、図のような論理構造を問題文から引き出す練習を何度かやってみると、さらに「学習の転移」が進みます。