平成29年度(2017年)東北大評論(大問一文系)は昨年並み、論理構造を重視して読もう!

★「眼に見える外界」は「眼に見えない人間の内面(知性)」によって支配される、という話

★全体の構成について★

★次の図は、全体の論理構造の前半(各形式段落毎に番号を振って、形式段落⓵~⑦)です。なお、形式段落①は冒頭の4行目までとしています。

 ●形式段落③までで「知っていることVS眼に見えたもの」の軸と「意識VS無意識」の軸を交差させよう!

 フランスのルイ14世の横顔を描いた肖像画を見た中国皇帝が、とても「吃驚(びっくり)」したというエピソードから始まる前半です。 

 ここまでで、カギ括弧「 」で示された「知っていることVS眼に見えたもの」という論理の軸と、形式段落③の2行目に繰り返された「自ら意識したかどうか」「意識しなかった」という表現から、「意識VS無意識」という論理の軸が皆さんの頭(心?)に構築されれば、あとを読み進めるのも楽になります。

 ●形式段落④からは「意識VS無意識」の論理の軸が前面に現れる!
 古代エジプト人が見えたままに描いた人体表現、言い換えれば彼らが人間を「写実的に」表現したものは、現在の人々もしくはキュビストたちからすれば、実は「複数の視点像を合成する」といった同じ型・様式によって描いたものだ、つまり「様式化された」人体表現だ、という話です。

 ここで小問(三)傍線部(イ)は、「複数の視点像を合成」することを意識的に行うことで、現実の対象をあるがままに見ない人間の内面の真実を明らかにしようとするキュビストたちの「制作意図」を理解する問題となっています。

 また、小問(四)傍線部(ウ)は、古代エジプト人が無意識のうちに「写実的に」人体を表現すればするほど、それは現代人もしくはキュビストたちからすれば意識的「様式化された」表現となる、というパラドックス的な言い回しの理解を求めた問題です。

★次の図からは、後半(形式段落⑧~⑮)の内容が加わります。

 ●形式段落⑧~⑫:人間は「知性の働き」というフィルターを通して「あるがままではない世界」を見る!

 前半の内容を受けて形式段落⑧~⑫ではカメラの構造や心理学の実験を引用し、「頭で知っていること(知性)」と「眼に見える世界」との関係を科学的に説明しています。

 つまり、我々が「視覚で捉えている世界」は「あるがままの世界」ではなく、意識的であるか無意識であるかに関わらず、我々は常に「知性の働き(眼と頭との協力)」というフィルターを通して、いわば「あるがままではない世界」を見ているということです。

 ●形式段落⑬~⑮:エジプト壁画や旧石器時代末期のヨーロッパ洞窟壁画は、当時の人々がもっていた「知性(=眼と頭の協力)」を示している!

 形式段落⑬~⑮では、旧石器時代末期のヨーロッパ洞窟壁画を取り上げ、当時の人々が「写実的」あるいは「見えたまま」に描いた複数視点の混在する洞窟壁画は、彼らの生々しい描写力や迫真的な現実再現性を示していると、筆者は語っています。

 また、人間の「眼に見えたもの・眼に見えた世界」「対象のあるがままの世界」ではなく、そのように外界や対象を見てしまう人間自身の知性の反映であるとも、筆者は語っていましたね(形式段落⑧~⑫)。

 したがって、形式段落⑮の小問(五)傍線部(エ)は、ラスコー➡洞窟壁画(形式段落⑬~⑮)の話と、ナイル河のほとり➡エジプト壁画(形式段落④~⑦)の話とを、「頭で知っていること(知性)」「眼に見える世界」との関係(形式段落⑧~⑫)の話で、つないでいくことになります。

 つまり、当時の人々にとって「見えたまま」あるいは「写実的」に描写した洞窟壁画の動物や古代エジプト壁画の人体は、ともに複数の視点を無意識に混在・合成させながら、彼らの「知性」を物語っている表現であるということになります。

★小問の解説・解答★
 小問(一)の漢字問題は省略。各小問の正答例は青フォントで示しています。

★まず、小問(二)傍線部(ア)は理由説明問題です。

 フランスのルイ14世の横顔を描いた肖像画を見た中国皇帝が「吃驚(びっくり)」したのは「正常の反応」だという理由・根拠を求める問題です。

 この中国皇帝にとって「人間の顔とは正面向きの顔」だというのが当たり前であり、それが常識だと「頭で知っていること」なのです。だから、「人間の顔」を描く場合は「正面向きの顔」を描くのが、至極当然だと思っています。

 したがって、「人間の顔」として「横顔」が描いてあれば、「あれあれ、この絵の人物は顔が半分?」と驚いたしまったというエピソードです。この場合、「人間の顔の絵は正面向き」というのが無意識に常識として「頭で知っていること」ですから、「眼に見えるもの」である絵が「横顔」の絵でも、それは「顔が半分の人の絵」と思えてしまうのです。このあたりの説明は、形式段落②の4行目~6行目形式段落③の3/4行目に延べられています。

 正答は、人間の顔は正面像として描かれる(はず)という「頭で知っていること」を前提にして、「眼に見えるもの」としてのルイ14世の「横顔」を中国皇帝は見ているということを、制限文字数内でまとめれば良いのです。

正答:絵は正面像を描くと頭で知っている常識からすれば、横顔の絵は半分の顔しかもたぬ人間を表わすものだから。(50文字)

★次の小問(三)傍線部(イ)は、内容説明問題です。

 小問(三)傍線部(イ)が、何を強調している表現かを説明する問題です。傍線部(イ)に二度繰り返される「それ」という指示語が直前の一文を指すことに着目しましょう。

 人間の見ている外界は、エジプト人が無意識に行う「複数の視覚像の合成」のように対象を複数の視点から見たものでなく、ある瞬間の同一時間ごとにひとつの視点から見た「統一的な視覚像」であるはずだとキュビストたちは考えます。

 ところが、人間は過去・現在・未来という時間の流れの中で生きており、その複数の時間の中で人間像を捉えてこそ、人間存在の意義や真実は明らかになるという理念を、キュビストたちはもつようになります(この内容は本文に延べられてないので、皆さんの理解が深まるように補足してみました)。

 その結果、キュビストたちは、過去・現在・未来という「時間の観念」「意識的」に導入することで、複数の視点から見た複数の視覚像をひとつの平面(画面)のなかに合成するという、キュビズム独自の「様式化」された表現技法を確立していったのでした。

 したがって、エジプト人が無意識に行った「複数の視覚像の合成」を、キュビストたちは意識的に時間の観念の導入しながら意図的に実現している、という内容を中心にまとめれば、傍線部(イ)の強調するものを求めた小問(三)の正答になります。

正答:複数視点の表現がキュビストにとっては意識的な時間の観念の導入によって可能になる表現だったということ。(50文字)

★次の小問(四)傍線部(ウ)は、パラドックス的(逆説的)な表現の説明問題です。
 傍線部(ウ)を約めると「『様式化』された人体表現が、『写実的』表現であった」となり、この言い回しがいかにもパラドックス(逆説)的ですね。

 形式段落④⑤においては、「複数視点からの複合像である人体」がエジプト人にとっては特に何かを意識することもなく、ただ無意識に「見えたまま」の結果であると述べられています。

 壁画に残された「複数の視覚像の合成である人体」は、エジプト人にとっては現実に「眼に見えているもの」をそのまま「写実的」に描いただけの絵だということです(もっと絵画表現に即して言えば、当時のエジプト人が人体を描く場合、「複数の視覚像が合成された人体」こそがごく自然に無意識のうちに「眼に見えるもの」として浮かんでくるということでしょう)。

 ところが、形式段落⑥⑦におけるキュビストたちにとって、現実の対象はひとつの視点からしか見えないものであり、同じ時間における視覚像が「複数の視覚像の合成」ではあり得ないのです。したがって、「複数の視覚像の合成」を施した絵画は、複数の時間における複数の視覚像の混在・合成という一定の型にはめる過程、いわゆる「様式化」を意識的に行うしかなかったのです。

 以上を踏まえれば、傍線部(ウ)「様式化された」とはキュビストたちが「意識的」に行なった「複数の視覚像の合成」を指すことが分かります。この点をしっかりと答の記述に含ませて、このパラドックス的(逆説的)な言い回しをきちんと説明しましょう。

正答:意識的に行った複数視点の合成と思える人体表現も、エジプト人には現実を見たままに描いただけということ。(50文字)

★最後の小問(五)傍線部(エ)は、本文全体の趣旨を踏まえて答える内容説明問題です。

「本文全体の趣旨」を踏まえるとは、「本文全体の論理構造」を理解するということです。そして、その理解の上に立って傍線部(エ)の意味する内容を説明するということを求めています。したがって、上の全体の論理構造をしっかりと照らし合わせて、次の小問(五)の解説を読んでください。

 傍線部(エ)における「ラスコー」とは旧石器時代末期の洞窟壁画、「ナイル河のほとり」とはエジプトの壁画・浮彫りをそれぞれ指しています。したがって、全体の論理構造からすれば、洞窟壁画の野牛の姿(形式段落⑬~⑮)の話とエジプト壁画・浮彫りの人体表現(形式段落④~⑦)の話とをつなぐことになります。

 そうすると、両者の表現技法がともに「複数視点の合成」を無意識のうちに行なった表現である点で共通していることがわかります。この「複数視点の合成」という過程のなかに、両者に共通する「働いていた精神(傍線部エ)」があるのです。

 次に、無意識のうちに行なわれる「複数視点の合成」の過程については形式段落⑧~⑫で、人間は「知性(眼と頭の協力、頭で知っていること」の働きによって、現実のあるがままの外界(対象)とは異なった「眼に見える世界」を視覚像としてとらえているのだと説明しています。

 さらに、形式段落⑧~⑫の「まとめ」となる形式段落⑫では、知性の働きによって「眼に見える世界」が人間と外界に存在する対象との関係をよく示しているのだとも筆者は語っています。

 したがって、複数視点の合成の過程に「働いていた精神(傍線部エ)」については、「複数視点の合成」「知性の働き」「あるがままの外界とは異なる『眼に見える世界』」「眼に見える世界は自己と対象との関係を示す」などを中心にして制限文字数内にまとめます。

正答:外的世界を複数視点が合成された視覚像へと無意識に転換させながら、自己と対象との関係における知性のあり方を表現している点。(60文字)

●問題を振り返ろう!

★パラドックス的(逆説的)表現に馴染んでおこう。
 小問(四)は、「『様式化』された人体表現が『写実的』表現であった」というパラドックス的表現内容の説明問題でした。そして、今年度、逆説(パラドックス)もしくは逆説的(パラドックス的)な言い回しや表現に関する問題が、旧帝大系を中心に多く出題されています。なぜでしょう?

 それは、逆説的(パラドックス的)な表現自体が一見すると論理的な矛盾を抱えた表現であり、その矛盾点を筆者はどのような論理で解消しているかを問うことができるからです。つまり、パラドックス的な言い回しで語られた筆者の主張の正しさを明らかにするために、その主張の根拠や理由となる論理を組み立てていくという論理的な思考力(主張と根拠の関係を適切に理解して表現する力)が試されるのです。

★逆説(パラドックス)による表現に関する近年の問題
●29年度東京大学 第一問(評論)小問(三) ●29年度京都大学 (理系学部)大問二の小問二 ●29年度京都大学 (文理共通)大問一の小問(五)●29年度 大阪大学 (文学部を除く文系学部共通)「大問一」の小問二(●28年度九州大学 (文系全学部)大問一の小問6●平成28年度大阪大学(文学部以外の文系)評論問題Ⅰの小問四)

★本文全体の論理構造を理解できることが、読解力や表現力の必須条件!
 小問(五)は、「本文全体の趣旨を踏まえて」とあるように全体の論理構造を理解した上で解答することが求められています。したがって、問題文全体を常に俯瞰的に眺めて論理の全体的な構造を理解するために、論理というものが評論文では一般的にどのように組み立てられているものなのかというスキーマ的な知識と理解が、問題文を読む以前にますます必要となってきます。

 今後も、国公立二次における国語記述問題では、「問題文全体の論理構造」を問うことで受験生の論理的な思考力を測ることとなっていきます。

28年度東北大学評論の全体論理構造は、 最終段落末尾で「売買可能」と「売買不可能」の軸が浮かぶ!

★何でも売り買いできると思うのは間違い、という話★
 第1段落は市場経済においては売買の手段である「貨幣」 さえも売買の目的となったという内容。

 第2段落では「自然」の中心的一部の「土地」、第3~6段落では労働する「人間」も販売目的の商品として売買されるようになったと述べられる。

 そのように市場経済においてすべてが「売買可能」なものになるかのように思えて、実は「売買不可能」なものが地球には存在するという内容が最終段落で明らかにされるのである。

★全体の論理構造★
 図は、平成28年度東北大二次試験における評論問題(出典:藤田省三氏『全体主義の時代経験』)の全体の論理構造です。

 最終段落の末尾で売買不可能なものがあると語られ、「売買できるもの」と「売買できないもの」という縦軸が見えてくる。この縦軸が、本来的な存在意義から変転し売買の対象物となった「貨幣」「自然物(土地)」「人間(労働力)」の3つの横軸と交差する。これが全体の論理構造である。

 横軸が3本あるかのようで複雑そうに見えるが、それらの横軸は本来的な性格を変えて売買の対象になったものの具体的な3つの事例であり、論理構造上は1本の横軸としてまとめて考えたほうがよい。

★小問の解説★
 下の図で「ブルーの丸囲み」が各小問が対象にしている論理構造である。小問(一)漢字問題は省略する。

小問(二)
 貨幣の売買について。傍線部「其の~制縛力」の表現上の類似性から推論し、同じ形式段落内の「強制的な影響力(権力)」という表現を含む一文にたどり着ける。簡単な「枝問」である。

正答:媒介記号であった貨幣が売買の対象となることで市場経済を支配すること。(35文字)

小問(三)
 土地の売買について。傍線部の直後に、「自然」は人間が依存して生計を立てる、つまり市場経済の対象になることで商品化されていくという内容が語られている。

正答 :市場経済と無縁な限り、自然は売買の対象にならないということ。(30文字)    =自然は市場経済という点から売買の対象になっていくということ。

小問(四)
 第5段落冒頭の「現実には~」に着目する。「観念」に対する「現実」という二項対立の構図を踏まえて、図の該当箇所を答えればよい。

正答:商品として売買が可能な労働力という考え方は、労働が人間に付随して切り離せないものという現実の事実関係に反するものだから。(60文字)

小問(五)
 最終段落の末尾の表現によって、市場経済の中を生きる人間の背景には売買不可能な地球的自然が存在するという内容を理解し、 「売買可能」と「売買不可能」という全体的論理構造の縦軸 をしっかりと確立する。そして、商品化のためにエンドレスに性格を変転させていく三大擬制商品の横軸との交差を、記述の骨格として解答していく。

正答:人間は市場経済において売買の対象とするために事物本来の性格を変転させ続ける一方、売買が不可能な地球的自然という存在への対応を求められているという状況。 (75文字)

●次は、全体の論理構造と各小問が対象にする箇所を示した図。

問題を振り返ろう!

 評論問題として本講座で取り上げたうち、この東北大の論理構造は、同じく28年度の東大、京大、大阪大、名古屋大、一橋大の評論や九大の「大問一」と基本的に同じ論理構造だから、二項対立交差の「評論スキーマ」を身に付けて入試評論を素早く解くために、これらの大学の評論問題に必ず目を通しておこう!

平成29年度(2017年)北海道大「大問一(文系)」

★近現代における妖怪(もしくは霊)は人間の心の闇のなかに潜んでいる、という話★
 平成29年度北海道大学二次総合入試「大問一」評論:文系問題です。 出典は香川雅信氏『江戸の妖怪革命』(角川ソフィア文庫)第四章「妖怪娯楽の近代」の『幽霊の特権化』並びに『「霊感」と怪異のヴァーチャル・リアリティ化』から。高校の教科書レベルでいえば高2後半から高3前半レベルの素材文というところです。

 形式段落①②において述べられた「啓蒙の時代(科学的・合理的思考の時代)」「妖怪や霊が人間個人の心の中に潜む」という「うらおもて」の二つの考え方が、形式段落⑦以降「霊感(霊を見る能力)」の話へと伏線的に繋がっており、その間に形式段落③~⑥「近現代における幽霊の特権化」という話が入り込みます。

★全体の構成について★

★次の図は、全体の論理構造の前半(各形式段落毎に番号を振って、形式段落⓵~⑥)です。

 近世と近代では妖怪と幽霊に対するリアリティが逆転しているという内容(形式段落③~⑥)が、前半の中心となっています。そして、形式段落①②形式段落⑥の内容が形式段落⑦以降へと話が関連していきます。

★次の図からは、後半(形式段落⑦⑧⑨⑩)の内容が加わります。

 形式段落①②の「科学的・合理的思考」とは裏表な「不可視な厚みを持った人間の内面で生育する妖怪や幽霊」という内容、さらに形式段落⑥「人間の抱える暗い深淵の不気味さ」という内容が、形式段落⑦~⑩における「主観化・個人化された視覚」という「人間の内面のはたらき」によって「妖怪や幽霊」が見える人/見えない人に弁別されるという話に関連して発展していきます。

★小問の解説・解答★
 小問一の漢字問題は省略。各小問の正答例は青フォントで示しています。

●小問二は、内容説明問題です。
 形式段落①の冒頭文と形式段落②の冒頭文が同じ内容を表していることが分かれば簡単です。設問の条件に合致する内容を問題文からほぼ抜き出してくるような記述問題です。
 
 答は、「科学的・合理的思考が特権的に優先される時代」ということが書ければOKです。さらに、形式段落⑥の「幽霊のリアリティのみ特権化」の話に関して3行目から4行目の「自然の神秘性」の表現を踏まえ、「科学性(合理性VS神秘性(自然もしくは妖怪など)」という軸を示す記述内容になればパーフェクトでしょう。

正答:自然の神秘性を否定する科学的な思考を優先する時代。(25文字)

●小問三は、理由説明問題です。
 小問二の解説で既に言及した形式段落⑥の内容のみで答が出てくる設問です。また、小問四「リアリティの逆転」という論理構造を構成している一部を問う設問にもなっています。

 論理構造図のように、妖怪が「自然」への畏怖に依拠する存在だったが、科学的・合理的思考優先の時代になって自然そのものが神秘性のない制御可能なものになった結果、妖怪も虚構の存在として恐怖の対象ではなくなったということをまとめればよいのです。「科学性VS神秘性」「リアリティVS虚構」という軸における「神秘性」と「虚構」が記述のキーワードとなります。

正答:自然が神秘性のない制御可能なものとなった今では、自然への畏怖に依拠した妖怪も架空の存在と思えるから。(50文字)

●小問四は、内容説明問題です。
 形式段落⑤の「近世(江戸時代)」と形式段落⑥の「近現代」の両時代とも「リアルVSリアルでない」「妖怪VS幽霊」という二つの軸が交差する論理構造です。

 この設問では、「幽霊」と「狐狸が化けるという話」のどちらにリアリティ(現実感)があったかに限定した上で、現代と江戸時代ではそのリアリティ(現実感)が「逆転」していることを説明することとなります。

出典となった『江戸の妖怪革命』の序章で「妖怪」は本来「化物(ばけもの)」と呼ぶべきもの(特に江戸時代には)としており、ここでの「狐狸が化けるという話」も実は「妖怪の仕業の話」と理解すべきなのですが、問題文ではそのことが明らかになっていません。

正答:現代では狐狸が化ける話より恐怖の対象である幽霊にリアリティがあるが、江戸時代には死者が蘇るという非現実的な幽霊より狐狸が化ける話にリアリティがあったということ。(80文字)

●小問五は、内容説明問題です。
 まず、「霊感」とは個々人の内面の働きによって妖怪や幽霊が見えるという能力、言い換えれば妖怪や幽霊は人間の不可視な内面の投影として見えたり見えなかったりするということです。

 このことは形式段落①②において妖怪が「私」という個人の不可視な内面に居場所を定めて生育するという比喩的な表現でも表されています。

 そして、形式段落⑨において、妖怪や幽霊が人によって見えたり見えなかったりすることを、筆者は「視覚の主観化・個人化」とも表現しているのです。

 さらにまた、個人によって異なる「霊力」「視覚の主観化・個人化」の背景として、近代になって人間が「心の中に不気味な暗い深淵を抱えた存在」と認識されるようになったいう、形式段落⑥の内容が挙げられます。

妖怪や幽霊に関する「リアルな存在(近世)VSリアルでない存在(近代)」に、「視覚の主観化・個人化」を交えて答をまとめていきましょう。

正答:近世におけるような幽霊や妖怪のリアルな現実感に変化が起きる一方で、人間は不可視な内面を抱えた不気味な存在だと認識されるようになった近代以降、個人の主観的な感覚である霊力の有無によっては幽霊や妖怪は今もリアルな存在であり続けているということ。(120文字)

●問題を振り返ろう!

★問題文だけで設問に答えるのは厄介
 出典となった原文からの切り取りだけでは、なかなか論理的な全体の構造が読み取りづらい問題文でした。

 小問四も、妖怪となった狐狸が幽霊に化けているということ、つまり、ここでの狐狸が妖怪だということが問題文中に示されていれば、「リアルVSリアルでない」「妖怪VS幽霊」という二つの軸がすっきりと見えて答も書きやすかったでしょう。

★小問五の難しさ
 小問五についても、問題文に続く内容として、近代になって他人には不可視なものとなった「私」という個人の内面の不気味さが、幽霊や妖怪を見ることのできる超自然的な霊の力というものへ転換していったと、筆者は述べています。このような筆者の考え方を問題文だけの切り取りで理解するのは、高校生にはかなり困難だったでしょう。
 ただ、「人間の内面」「妖怪が見える霊力」に焦点を絞って整理しながら問題文を読めば、人間に対する恐怖が人間の不可視な内面の不気味さを肥大化させ、その結果、人によっては内面の働きによって幽霊や妖怪も見えるのだという風潮へと発展していったという論の展開を理解することは可能です。